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【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊地町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関〜唐戸)/彦島

-晋作の愛した下関-

豊北町・豊浦町 / 豊田町・菊川町 / 吉母・吉見・福江 / 内日・井田・田倉 / 吉田・清末
安岡・綾羅木・延行 / 長府 / 市街(下関〜唐戸) / 彦島

市街(下関〜唐戸)
 下関は赤間関や馬関などと呼ばれた地で、北前船の寄港地として栄え、かつては西の大坂と呼ばれたほどの繁栄を見せていました。参勤交代では九州の諸大名が必ず止宿し、朝鮮通信使や出島から江戸へ登る外国人の定宿地にもなっており、本陣は伊藤家と佐甲家の2家が担当しています。軍事、政事、経済において最も重要場所のひとつとして、日本史において幾多の事件の現場にもなりました。

前田・椋野・みもすそ川・壇ノ浦・本町

前田台場跡
-四ヶ国艦隊に占領された台場跡-
関門海峡での攘夷戦に備えて築かれた台場のひとつ。海峡を航行する外国船に攘夷を行った長州藩でしたが、報復攻撃によって壊滅・占領されてしまいます。諸外国との力の差を知った長州藩は、下関に高杉晋作を派遣。晋作は身分を問わず有志を集めて奇兵隊を結成しました。前田台場も修復・増強させますが、四ヶ国艦隊が来襲し、再び占領されてしまいます。
場所:下関市前田1
ブログ記事→前田台場跡


角石陣屋跡
-四ヶ国艦隊陸戦隊との戦場跡-
前田砲台を占領した四ヶ国艦隊は、さらに内陸にある角石陣屋まで攻め込んでいます。長州藩は応戦しますが、陣屋を自焼させて退却。四ヶ国艦隊陸戦隊は、この様子を見て艦に引き上げました。この戦闘の様子がロンドンニュースの挿絵として残っています。
場所:下関市前田422
ブログ記事→
下関市前田 角石陣屋~ロンドンニュースに描かれた場所


火の山周辺の諸砲台跡
-小倉戦争時の諸砲台跡-
幕府との戦に備えて海峡対岸の田浦や布刈を標的とした砲台が設置され、小倉戦争の上陸作戦の援護に使用されました。
場所:下関市椋野、みもすそ川町
ブログ記事→
灯篭堂砲台他


壇ノ浦砲台跡
-攘夷戦の砲台跡-
門海峡での攘夷戦に備えて築かれた台場のひとつ。攘夷戦の他、はるか昔の源平合戦における最後の戦いである壇ノ浦の戦いもここで行われました。源義経や平知盛の銅像が設置されており、攘夷戦時をイメージした5門の八十斤カノン砲と、1門の天保製大砲のレプリカが海峡に向けて設置されています。
場所:下関市みもすそ川町
ブログ記事→
下関市 歴史体感☆紙芝居


八軒屋砲台跡
-小倉戦争時の砲台跡-
小倉戦争では制海権の奪取と上陸作戦の援護の為に、多くの砲台が設置されました。八軒屋台場もそのひとつで、八軒の家屋が建っていた八軒屋村に設置されました。遺構は残されていませんが、小さな漁港と舟屋が八軒屋の漁村の面影を残しています。
場所:下関市壇ノ浦町
ブログ記事→
八軒屋砲台


空月庵跡
-本陣伊藤家の墓所-
女流俳人田上菊舎の滞在したという山の寺で、伊藤家の所領であったことから伊藤家の自仏堂となり、伊藤家墓所もここに置かれました。坂本龍馬の支援者でもあった幕末の当主伊藤助太夫の墓もここにあります。
場所:山口県下関市本町1丁目10
ブログ記事→
下関市本町 空月庵跡 伊藤助太夫(久三)墓所

阿弥陀寺町・中ノ町・赤間町

赤間神宮
-安徳天皇を祀る神社-
壇ノ浦の戦いに敗れて二位の尼と共に入水した安徳天皇の御遺体は、伊崎の漁師の網に引っかかって見つかりここに葬られ、その霊を慰める為に阿弥陀寺が創建されました。攘夷戦の際には隣の極楽寺と共に、奇兵隊の屯所にもなっています。阿弥陀寺は明治に廃仏毀釈により神社となり、2代目宮司には白石正一郎が就任しています。
場所:下関市阿弥陀寺町4-1


本陣伊藤邸跡
-下関東本陣伊藤家屋敷跡-
九州諸大名が参勤交代で必ず通る下関には、大名の宿泊施設である本陣が2つ設置されていました。ひとつは西の佐甲家で、もうひとつがここにあった東の本陣伊藤家です。伊藤家は大町年寄も勤め、長崎出島のオランダ商人の江戸参府の際の宿泊所でもありました。その影響からか歴代当主は外国事情に明るく、西洋趣味であったという。幕末の当主伊藤助太夫は、坂本龍馬の支援者としても知られ、伊藤邸の一室を「自然堂」と名付けてお龍と共に暮らしています。
場所:下関市阿弥陀寺町5-7


引接寺
-入江和作の墓所-
小早川隆景の菩提寺であった寺で、朝鮮通信使の宿泊所でもありました。下関条約の際には李鴻章が宿泊し、ここから春帆楼へと向かいました。墓地には高杉晋作の支援者のひとり、入江和作の墓があります。
場所:下関市中之町11-9
ブログ記事→
下関市中之町 引接寺 伊藤家・入江家墓所


亀山八幡宮
-関の氏神-
下関の氏神として信仰され、長門国三宮の社格をもつ神社。石段の下には舟番所が設けられており、九州への玄関口でもありました。攘夷戦の際には砲台が設置され、伊藤博文と梅子夫人の出会いの場所でもあります。
場所:下関市中之町1-1
ブログ記事→
下関市中之町 亀山八幡宮


稲荷町・裏町跡
-志士らが通った遊郭跡-
稲荷神社の参道であった稲荷町の筋とその隣の裏町の筋には、遊郭が立ち並ぶ花街でした。平家の女官が生活の為に遊女となったことが始まりとされ、安徳天皇の命日には、遊女達が宮廷装束を身に纏い参拝するという行為が受け継がれていたという。下関に駐屯する諸隊士や他藩の志士などが、この花街に集ったようです。
場所:下関市赤間町
ブログ記事→
下関市赤間町 末廣稲荷神社

南部町・観音崎町・入江町

料亭紅屋跡
-幾松、おうの、梅子が潜伏した料亭-
金子みすゞ顕彰碑のある寿公園が、料亭紅屋のあった場所。紅屋の主人喜助(喜八)は勤皇商人であり、本陣佐甲家に料理を運んでいた事もあってか、長州尊攘志士らを何度も匿っています。京都から下関に来た幾松が滞在し、伊藤博文が梅子と共に潜伏し、萩から来た妻子から隠す為、高杉晋作は紅屋におうのを預けたりもしています。
場所:下関市南部町7
ブログ記事→
下関市南部町 馬関越荷方役所跡・本陣佐甲邸跡・紅屋跡


伊藤梅子の実家跡
-初代ファーストレディの実家跡-
僅か10歳で両親と死に別れた梅子は、木田幸助の養女となってここで暮らしましたが、幸助の借金のカタとして置屋に売られてしまいます。後に伊藤に身請けされて妻となり、初代総理大臣の妻となりました。
場所:下関市南部町8-1
ブログ記事→
下関市南部町 伊藤博文公夫妻史蹟・梅子夫人の実家跡


本陣佐甲邸跡
-下関西本陣佐甲家屋敷跡-
伊藤家と共に下関の本陣を務めた佐甲家の屋敷があった場所。残念ながら遺構も、碑や説明板もありません。本陣が2つ置かれた理由は九州諸大名のWブッキングをさせる為で、東西の格式は同等。佐甲家には島津久光やシーボルトなどが宿泊した記録があります。四ヶ国連合艦隊との講和会議が成立した後には、四ヶ国艦隊首脳陣を招いた晩餐会が佐甲家を行われています。
場所:下関市南部町20-22
ブログ記事→
下関市南部町 馬関越荷方役所跡・本陣佐甲邸跡・紅屋跡


専念寺
-福原和勝の墓所-
長府報国隊初代軍監福原和勝は、攘夷戦、下関戦争、小倉戦争、戊辰戦争、佐賀の乱に従軍した歴戦の勇士でしたが、西南戦争で負傷して久留米で戦病死してしまいます。生前の遺言により関門海峡の望める丘の上に葬られました。専念寺裏手の山の山頂付近に墓があります。
場所:下関市南部町13
ブログ記事→
下関市南部町 専念寺 福原和勝の墓所


馬関越荷方役所跡
-長州藩の財源を生み出した役所跡-
莫大な利益を生む北前船を相手として、積荷の保管や販売などを藩主導で行い、長州藩は有事に備えた財源を確保するに至っています。高杉晋作も慶応元年に、馬関越荷方頭人に就任しています。
場所:下関市南部町17
ブログ記事下関市南部町 馬関越荷方役所跡・本陣佐甲邸跡・紅屋跡


永福寺
-小倉戦争時に砲台が置かれた山陽道起点の寺-
幽霊掛軸で有名な寺で山陽道西端の基点にあり、当後に国宝にも指定された観音堂が建てられていました。観音堂は空襲によって焼失してしまい、永福寺も高台に移動していますが、当時は山陽道沿いにあったようです。小倉戦争時にはここに大砲が設置され、援護射撃を行っています。
場所:下関市観音崎町8-2
ブログ記事→永福寺砲台跡


真木菊四郎殉難之地
-真木和泉の子菊四郎が襲われた場所-
久留米の神官真木和泉の四男菊四郎は、父と共に尊皇攘夷活動に参加。禁門の変で父は戦死しますが、菊四郎は敗残兵と共に長州に落ち延びます。倒幕には長州藩と薩摩藩の和解が不可欠であると両藩の和解を主張しますが、それをけしからんと考えた池内蔵太らに暗殺されてしまいました。
場所:下関市観岬之町6-2
ブログ記事→下関市岬之町 真木菊四郎殉難之地


岬砲台跡
-小倉戦争時に砲台が置かれた岬跡-
海運業者や魚市場が並んでいた岬之町にも、小倉戦争時に砲台が設置されました。現在は埋め建てられて岬ではなくなりましたが、小高い丘とU字になった小道が、当時の面影を残しています。
場所:下関市岬之町13-7
ブログ記事→岬砲台跡

細江町・丸山町・豊前田町

光明寺
-久坂玄瑞率いる光明寺党の本拠地-
攘夷の詔勅が発せられ、幕府が5月10日の期限を言明すると、久坂玄瑞は京都から約50人の同士と共に下関に下り、中山忠光を首領に向かえて光明寺に駐屯し、光明寺党と呼ばれました。光明寺党は長州・長府・清末藩兵と共に外国船の打ち払いを実行。米商船ペンブローグ、仏艦キャンシャン、蘭艦メデューサを砲撃しますが、米艦隊及び仏艦隊の報復攻撃を受けて甚大な被害を被りました。
場所:下関市細江町1-7-10


日和山公園
-高杉晋作の陶像-
大正天皇ご即位を記念して造られた下関市内で最も古い公園。高杉晋作の銅像が置かれましたが、大東亜戦争での金属供出によって失われ、戦後に陶器製の像が再建されています。陶像の周辺には桜が植えられ、季節には満開の桜が花見客を楽しませてくれます。
場所:下関市円山町5丁目
ブログ記事→下関市丸山町 桜と晋作像下関市丸山町 つかずの灯篭
      下関市丸山町 日和山公園を歩いて登る


東光寺
-奇兵隊駐屯地のひとつ-
本尊の薬師瑠璃光如来は平知盛の守護仏で、目の病気にご利益があるとされ、聖徳太子の作といわれています。また、市内の水産関係者や飲食店などで使用された包丁を慰霊する包丁塚もあります。功山寺で挙兵した高杉晋作は、新地会所を襲撃した後に了円寺を宿営としましたが、手狭となった為、東光寺に移っています。伊藤博文はその際に住職と仲良くなったようで、維新後も伊藤が下関に来るたびに碁を打ちに来ました。
場所:下関市豊前田1-1-23

竹崎町・伊崎町・新地町

大歳神社
-奇兵隊が必勝を祈願した武運の神-
源義経が決戦を前に篝火を炊いて祈願を行った場所で、壇ノ浦の戦いで源氏が勝利した後、地元の領民が神祠を祀ったのが大歳神社のはじまり。以後、武運長久の神として信仰され、奇兵隊旗揚げの際には軍旗が奉納されています。石段下の大鳥居は白石正一郎が奉納したもの。
場所:下関市竹崎町1-13-10
ブログ記事→下関市 大歳神社


長泉寺跡
-光明寺党が最初に寄宿した寺跡-
久坂玄瑞率いる浪士ら30人は、白石正一郎の紹介で長泉寺げ寄宿し、後に光明寺に移りました。現在は移転しており、跡地はパチンコ屋となってしまい何も残っていません。
場所:下関市竹崎町3-6-2
ブログ記事→
光明寺党の最初の宿泊地はどこに??


白石正一郎旧宅跡
-西国尊攘志士が集まった小倉屋跡-
清末藩の御用商で萬問屋の小倉屋の跡地で、主人は勤皇商人白石正一郎。下関に来る尊攘志士達のほとんどが小倉屋に厄介になっていたとされます。特に高杉晋作と深く関わり、奇兵隊の結成もここで行われました。奇兵隊の初期の経費の殆どを負担し、小倉戦争の影響もあって経営が悪化し維新後に倒産。家屋は売却されて取り壊されましたが、奇跡的に浜門のみ長府松小田に移築され現存しています。
場所:下関市竹崎町3-8
ブログ記事→
下関市竹崎町 白石正一郎旧宅跡・高杉晋作 奇兵隊結成の地


關屋松兵衛旧宅
-吉田松陰が下関巡視の拠点とした宿-
吉田松陰は北浦巡視の末に下関までたどりつきますが、下関周辺の巡視を行う際に拠点とした宿。關屋松兵衛は周辺の水先案内の傍らで宿も経営していました。
場所:下関市伊崎町1-5-14
ブログ記事→
下関市伊崎町 關屋松兵衛旧宅


ひょうたん井戸
-高杉晋作が隠れたとされる井戸-
下関を開港する為に長府藩の領地換えを主張した為、高杉晋作は長府藩攘夷派に命を狙われました。刺客から追われた晋作はこの井戸に身を隠したと伝えられています。
場所:下関市伊崎町1-8-7
ブログ記事→
下関市伊崎町 ひょうたん井戸


伊崎厳島神社・鈴ヶ森稲荷神社
-吉田松陰が訪れた神社-
平家の落ち武者が隠した安芸の厳島神社の分霊を、地元民が見つけて祀ったのが由来で、吉田松陰は北浦巡視の際にここを訪れて小瀬戸を望みました。
場所:下関市伊崎町1-7-23
ブログ記事→
下関市伊崎町 伊崎厳島神社・鈴ヶ森稲荷神社


小田海僊宅跡
-幕末の南画家の旧宅-
小田海僊は長州藩の御用絵師で、新地町の染物屋小田仙右衛門の実子若しくは養子でした。絵が得意だったようで同郷の永富独嘯庵を頼って京都に上り、四条派の松村呉春に師事しました。嘉永年間には京都郊外に草庵を建てて、絵画の製作に尽くしています。
場所:下関市新地町5
ブログ記事→下関市新地町 小田海僊宅址


高杉東行終焉之地
-高杉晋作終焉の地-
結核を患った高杉晋作は、新地の庄屋林算九郎の離れ家「緑堂」で、維新の達成を見ることなく波乱の生涯を終えました。
場所:下関市新地町3-22
ブログ記事→下関市新地町 高杉東行終焉之地


妙蓮寺
-長崎の砲術家中島名左衛門の墓所-
中島名左衛門は長崎出身の高島流砲術家で、長州藩に招かれて砲術教授となりました。外国船に砲撃を加えた下関に、世子毛利定広が中島を連れて現地入りし戦術会議が行われましたが、そこで中島は砲台の不備を指摘。面目を潰された光明寺党は、中島の宿舎を襲って暗殺してしまいます。中島は妙蓮寺に葬られ、その墓石が門の裏に移されています。
場所:下関市新地町3-22
ブログ記事→下関市新地町 妙蓮寺 中島名左衛門の墓

上新地町・桜山町・大平町

萩藩新地会所跡
-高杉晋作が襲った長州藩の役所-
功山寺で挙兵した高杉晋作は、ここにあった新地会所を取り囲んで空砲を鳴らします。会所取締役の根来上総は、抵抗せずに会所を明け渡しました。
場所:下関市上新地1-2-1
ブログ記事→下関市上新地町 萩藩新地会所と高杉東行療養之地


長門国厳島神社
-高杉晋作が戦勝を祈願した神社-
安徳天皇の御座船に乗っていた厳島神社の分霊を地元民が見つけてここに祀り、新たに広島の厳島神社より分霊を勧請した由緒を持ちます。高杉晋作は小倉戦争の際に戦勝を祈願し、小倉城落城の際に小倉城にあった大太鼓を持ち帰って奉納しています。
場所:下関市上新地1-2-1
ブログ記事→
下関市上新地町 長門国厳島神社


高杉東行療養之地
-高杉晋作が療養をした草庵跡-
結核を患い一線を退いた高杉晋作が療養した草庵跡。桜山神社の参道脇にあった一軒家で、静かに療養しようとしますが、寂しすぎたのかすぐにここを引き払って、喧騒の聞こえる新地に移っています。
場所:下関市桜山町3-23
ブログ記事→下関市上新地町 萩藩新地会所と高杉東行療養之地


桜山神社
-奇兵隊士を祀る招魂社-
高杉晋作の発案により殉国志士の神霊を祀る為の招魂場が築かれ、後に社殿も建てられました。全国初の招魂社であり殉国の士を祀るという発想は、後の靖国神社や護国神社に繋がっています。
場所:下関市上新地町2-6-22
ブログ記事→下関市上新地町 桜山神社で色々聞いてきた


了圓寺
-新地会所を襲った反乱軍が駐屯した寺-
新地会所を襲撃した高杉晋作率いる反乱軍は、了圓寺に立てこもりました。本堂には血気にはやって付けたであろう刀傷が柱に残っています。
場所:下関市大平町10-20
ブログ記事→下関市大平町 了円寺~小倉戦争戦死者の墓




豊北町・豊浦町 / 豊田町・菊川町 / 吉母・吉見・福江 / 内日・井田・田倉 / 吉田・清末
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