【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩
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北海道・東北の諸藩(北海道・青森県・岩手県・秋田県・山形県・宮城県・福島県)


東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩

北海道・東北の諸藩1(北海道・青森県・岩手県・秋田県)


○北海道

松前藩→館藩 外様
松前家 1万石格
 松前城→館城
幕末/明治の藩主:松前崇広、松前徳広、松前修広
渡島国津軽郡を領有した外様藩。戦国時代より蝦夷地を支配していた松前家が治めた。当時の蝦夷地は稲作が出来ず、松前家は無高ながら1万石の格が与えられていた。松前藩は蝦夷一円の支配(貿易権)を戻されていたが、日米和親条約によって箱館が開港されると、渡島半島南西部のみの支配に制限。第12代藩主松前崇広は、寺社奉行、陸軍兼海軍総裁を歴任し、将軍徳川家茂の側近も務めている。戊辰戦争では当初奥羽越列藩同盟に参加したが、勤皇派が藩政を掌握した為に新政府に寝返り、旧幕府軍の侵攻に備えて藩庁を松前城から内陸の舘へ移転。これに対して旧幕府軍は松前城に侵攻してこれを落とし、続いて館城も攻撃。藩主以下松前藩士らは弘前へ落ち延びた。箱館戦争終結後に館城へ戻り、改めて館藩を名乗っている。
松前藩庁ブログ記事→北海道松前郡 松前城@A
館藩庁ブログ記事→未訪問



○青森県

弘前藩 外様
津軽家 10万石 弘前城
幕末/明治の藩主:津軽順承、津軽承昭
陸奥国津軽郡を領有した外様藩。戦国末期に南部家から独立した津軽家が治めた。元主家であった盛岡藩南部家との遺恨は、江戸時代を通じて続き、度々藩境紛争を起こしている。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加するも後に脱退。極力戦闘には参加せずに戦況を伺い、新政府軍の勝利が確定すると、既にに降伏が受理されていた盛岡藩領へ支藩の黒石藩と共に濁川や野辺地に侵攻。盛岡藩、八戸藩に撃退されている。この戦闘は新政府軍によって私闘と判断されて功績とは認定されず、箱館戦争で全面協力することによって、戦後1万石の加増を受けるに至っている。
弘前藩庁ブログ記事→青森県弘前市 弘前城
          青森県弘前市 弘前城(再訪)


黒石藩
 外様
弘前藩支藩
津軽家 1万石 黒石陣屋
幕末/明治の藩主:津軽典暁、津軽親足
弘前藩4代藩主津軽信政が藩主就任時に幼少だった為、幕府裁定により叔父津軽信英が後見人となり5000石の分知を受け、その後に8代当主津軽親足が、更に6000石の分知されて立藩。幕末期には本藩と共に行動し、盛岡領の野辺地に進行したが敗北している。
黒石藩庁ブログ記事→青森県黒石市 黒石陣屋跡


八戸藩 外様
盛岡藩南部家庶流
南部家 2万石
 八戸城
幕末/明治の藩主:南部信順
陸奥国三戸郡八戸を領有した外様藩。幕府の命により盛岡藩から分割されて立藩。立藩当初は宗家と争うが後に和解。宗家と共に奥羽越列藩同盟に加入し、各地に守備兵を出兵させたが戦闘には参加していない。盛岡藩と共に新政府軍に降伏後、小隊を配備していた盛岡藩領の野辺地に弘前藩・石黒藩が侵攻。これに応戦して盛岡藩兵と共に撃退した(野辺地戦争)。
八戸藩庁ブログ記事→青森県八戸市 八戸城跡


盛岡新田藩→七戸藩
 外様
盛岡藩支藩
南部家 1万1000石 七戸城
幕末/明治の藩主:南部信民、南部信方
【定府】
旗本であった七戸南部家が盛岡藩より分知を受けて立藩。蔵米を支給される定府大名であったが、盛岡藩より七戸城跡の七戸代官所を借し与えられて藩庁とし、戊辰戦争では宗家の盛岡藩と共に奥羽越列藩同盟に参加。野辺地などに守備兵を派遣するが、降伏まで戦闘には参加していない。しかし小隊を派遣していた盛岡藩領の野辺地で弘前藩が侵攻した為、盛岡藩及び八戸藩兵と共に撃退している。維新後に領地を確定し、正式に七戸藩となった。
七戸藩庁ブログ記事→青森県上北郡七戸町 七戸城跡@A
          青森県上北郡七戸町 七戸城址(再訪)

斗南藩 維新立藩 →会津藩

○岩手県

盛岡藩 外様
南部家 20万石 盛岡城
   他に陸奥国稗貫に花巻城(花巻城代)
幕末/明治の藩主:南部利剛、南部利恭
陸奧国北部諸郡を領有した外様藩。甲斐源氏の流れを汲む名門南部家が治めた。佐幕か勤皇か藩論のまとまらぬ状況であったが、家老楢山佐渡の主導により奥羽越列藩同盟に参加。新政府側についた久保田藩に攻め込み、一時は大館城を占領するが、佐賀藩兵ら新政府軍の援軍を得た久保田藩兵の総攻撃により劣勢となり、藩境まで押し戻されている。同盟の盟主仙台藩が降伏すると、これに続いて降伏。新政府に受理されたが、弘前藩が突如として盛岡藩領の濁川や野辺地に侵攻。八戸藩や七戸藩兵と共に応戦してこれを撃退した。
盛岡藩庁ブログ記事→岩手県盛岡市 盛岡城跡
盛岡藩支城花巻城ブログ記事→岩手県花巻市 花巻城跡


一関藩
 外様
仙台藩支藩
田村家 3万石 一関陣屋
幕末/明治の藩主:田村通顕、田村邦栄、田村崇顕
伊達政宗の正室愛姫の実家であった田村家が治める仙台藩の支藩。はじめ岩沼に藩庁を置いたが、後に一関に領地替えとなっている。幕末期は宗家の仙台藩と行動を共にし、新政府軍と戦った。
一関藩庁ブログ記事→岩手県一関市 一関陣屋跡


○秋田県

久保田藩 外様
佐竹家 20万5000石 久保田城
   他に出羽国平鹿に横手城(城代戸村家)
   他に出羽国秋田に大館城(城代佐竹家)
幕末/明治の藩主:佐竹義睦、佐竹義堯
出羽国一円を領有した外様藩。室町時代以来の常陸守護の家柄である佐竹家が支配した。当初は奥羽越列藩同盟に参加していたが、仙台藩の使者を斬ったうえ新政府側に寝返る。これにより、庄内藩、盛岡藩、仙台藩などの攻撃を受けるが、佐賀藩兵ら新政府軍の援軍を得て秋田戦争を勝利した。久保田藩は一国一城の例外として、幕府より横手城と大館城の2城の存続を許されていたが、両城とも秋田戦争の激戦により落城している。
久保田藩庁ブログ記事→秋田県秋田市 久保田城跡@/A
久保田藩支城横手城ブログ記事→秋田県横手市 横手城跡
久保田藩支城大館城ブログ記事→秋田県大館市 大館城跡


久保田新田藩→椿台藩→岩崎藩
外様
久保田支藩
佐竹家 2万石 椿台陣屋→岩崎陣屋
幕末/明治の藩主:佐竹義ェ、佐竹義理

【定府】
久保田藩3代藩主佐竹義処が、弟の佐竹義長に2万石を分知したことで立藩。蔵米を支給された定府大名であったが、大政奉還後に椿台に陣屋を構えて藩庁としたが、戊辰戦争において椿台は庄内藩との激戦地となった、戦後に岩崎に陣屋を構えて岩崎藩となるが、3ヵ月後に廃藩置県を迎えている。
椿台藩庁ブログ時期→未訪問
岩崎藩庁ブログ記事→秋田県湯沢市 岩崎陣屋跡


亀田藩 外様
岩城家 2万石
 亀田城
幕末/明治の藩主:岩城隆邦、岩城隆彰
出羽国の一部を領有した外様藩。常陸平氏の流れを汲む岩城家が支配した。奥羽越列藩同盟に参加していたが、久保田藩の呼びかけで同盟を脱退。しかし庄内藩兵に敗れた新政府軍が亀田藩を見捨てたため、庄内藩の説得に応じて降服。奥羽越列藩同盟に再加入して新政府軍と戦うが、援軍を得た新政府軍に敗れて再度降服した。
亀田藩庁ブログ記事→秋田県由利本荘市 亀田城跡


矢島藩
 維新立藩
生駒家 1万5000石
 矢島陣屋
幕末/明治の藩主:生駒親敬
生駒家はかつて17万石の大名であったが、生駒騒動というお家騒動によって改易。その後再興が許されて交代寄合となっていたが、幕末期の当主生駒親敬が、奥羽鎮撫使の指揮下に入って庄内藩攻撃を先導役となった功績から、新政府より高直しされて矢島藩を立藩。戊辰戦争の際に諸侯に加える内諾を得ていたとされる。
矢島藩庁ブログ記事→秋田県由利本庄市 矢島陣屋跡



本荘藩 外様
六郷家 2万石
 本荘城
幕末/明治の藩主:六郷政殷、六郷政鑑
出羽国由利郡を領有した外様藩。出羽国山本郡六郷を支配する国人領主であった六郷家が支配した。奥羽越列藩同盟に参加していたが、久保田藩の呼びかけで同盟を脱退。しかし、庄内藩の猛攻を受けて本荘城は落城。藩主以下本庄藩兵は久保田藩に退却し、新政府軍の援軍を待って本庄城を奪還した。
本庄藩庁ブログ記事→秋田県由利本荘市 本荘城跡


東北の諸藩2(山形県・宮城県・福島県)


○山形県

庄内藩 譜代
酒井家 17万石
 鶴ヶ岡城
   他に出羽国飽海に亀ヶ崎城(城代松平家)
幕末/明治の藩主:酒井忠寛、酒井忠篤、酒井忠宝
出羽国田川郡庄内周辺を領有した譜代藩。徳川四天王の一人酒井忠次の嫡流である左衛門尉酒井家が支配した。第11代藩主酒井忠篤は江戸市中取締役に任じられ、江戸の不逞浪士の取締を行った。この為に新政府軍の標的とされ、戊辰戦争では会津藩と結んで新政府軍に対抗。スナイドル銃等の最新兵器を用いて、新政府軍に与した久保田藩や新庄藩等の近隣諸藩を撃破して破竹の勢いを見せ、米沢藩や会津藩など同盟諸藩が次々と降伏する中、最後まで戦い続けている。
庄内藩庁ブログ記事→山形県鶴岡市 鶴ヶ岡城跡
庄内藩支城亀ヶ崎城ブログ記事→山形県酒田市 亀ヶ崎城跡


出羽松山藩
 譜代
庄内藩支藩
酒井家 2万5000石 出羽松山城
幕末/明治の藩主:酒井忠良、酒井忠匡
庄内藩初代藩主酒井忠勝の三男酒井忠恒が、蔵米2万石を支給されて立藩。3代酒井忠休は若年寄に昇進した為、5000石加増されて城主大名となり松山城を藩庁とした。戊辰戦争では、宗家の庄内藩と共に新政府軍と戦った。
出羽松山藩庁ブログ記事→山形県酒田市 出羽松山城跡


新庄藩 外様
戸沢家 6万8000石
 新庄城
幕末/明治の藩主:戸沢正実
出羽国最上郡全域を領有した外様藩。出羽の名門戸沢家が支配した。奥羽鎮撫軍と共に庄内藩に攻め込むが撃退。その後は奥羽越列藩同盟に加入し、庄内藩と共に新政府軍を圧倒するが、久保田藩の寝返りに呼応して同盟から離脱。これに激怒した庄内藩は新庄城を攻撃して新庄城は落城している。
新庄藩庁ブログ記事→山形藩新庄市 新庄城跡


長瀞藩→大綱藩→龍ヶ崎藩 譜代
米津家 1万1000石
 長瀞陣屋
          蓮照寺、龍ヶ崎陣屋
幕末/明治の藩主:米津政易、米津政明、米津政敏
【定府】
出羽国村山郡長瀞の他、下総、上総、常陸に所領を有した譜代藩。藩庁は長瀞に置かれたが、所領が5ヶ国に分散しており藩主の米津家は定府大名でもあった為に簡素なものであった。戊辰戦争時も藩主は不在で、長瀞陣屋の前藩主以下藩士らは庄内に避難。陣屋は戦火で焼失し、戦後に大綱、龍ヶ崎に藩庁を移した。
長瀞藩庁ブログ記事→山形県東根市 長瀞陣屋跡
大綱藩庁ブログ記事→未訪問
龍ヶ崎藩庁ブログ記事→未訪問


天童藩 外様
織田家 2万石
 天童陣屋
幕末/明治の藩主:織田信敏、織田寿重丸
出羽国村山郡天童周辺を領有した外様藩。織田信雄の流れを汲む織田家が支配した。戊辰戦争では、新政府軍に奥州の道案内役を命じられ、新政府軍の一員として庄内藩と戦うが敗北。奥羽越列藩同盟が結成されるとこれに参加し、新政府側に立った久保田藩などへの攻撃に参加した。
天童藩庁ブログ記事→山形県天童市 天童陣屋跡


山形藩→朝日山藩 譜代
水野家 5万石
 山形城
幕末/明治の藩主:水野忠精、水野忠弘
出羽国村山郡山形周辺を領有した譜代藩。幕府の重職から失脚した幕閣の左遷地として、譜代大名が頻繁に入れ替わり、幕末には水野家が支配した。水野家は、天保の改革に失敗した水野忠邦が失脚したことによっての国替。戊辰戦争では、藩主と前藩主が上洛している間に、奥羽越列藩同盟に加入して新政府軍と戦っている。明治3年に近江の朝日山に転封となり、山形領は明治政府の直轄となっている。
山形藩庁ブログ記事→山形県山形市 山形城跡
朝日山藩庁ブログ記事→滋賀県長浜市 朝日山陣屋跡


上山藩 譜代
藤井松平家 3万石
 上山城
幕末/明治の藩主:松平信庸、松平信安
出羽国村山郡上山周辺を領有した譜代藩。藤井松平家が支配した。北は山形、南は米沢に隣接する羽州街道の要衝で、温泉宿場町としても古くから繁栄を遂げていた。幕末には大坂警備や江戸市中警備に派兵。薩摩藩による浪士を使った江戸市中の相次ぐ放火に対して、報復として庄内藩や鯖江藩と共に薩摩藩邸を焼き討ち。奥羽越列藩同盟が結成されるとこれに参加。秋田戦争や北越戦争に軍を派遣した。米沢藩の降服に伴い兵を引いて降服している。
上山藩庁ブログ記事→山形県上山市 上山城


米沢藩 外様
上杉家 19万石 米沢城
幕末/明治の藩主:上杉斉憲、上杉茂憲、徳川昭武
出羽国置賜郡を領有した外様藩。越後の雄であった上杉家が、関ヶ原の戦い後に減移封となって米沢藩を立藩。120万石の大藩から30万石に厳封されたため、膨大な家臣団を養うことができず、財政は慢性的に逼迫。第3代藩主上杉綱勝が嫡子も無いままに急死した為に更に減封となって、9代藩主上杉鷹山の登場まで、財政は破産寸前であった。戊辰戦争では、会津藩初代保科正之への恩義から奥羽越列藩同盟を結成して新政府に対抗。北越戦争に産科したが、敗北を重ねて降服。その後は官軍の一員として庄内藩などに出兵。会津藩にも恭順を諭した。
米沢藩庁ブログ記事→山形県米沢市 米沢城跡@/A

米沢新田藩 外様
米沢藩支藩
上杉家 1万石 米沢城内
幕末/明治の藩主:上杉勝義、上杉勝道

【定府】
5代藩主上杉吉憲が弟の上杉勝周に新田1万石を分地した事で立藩。戊辰戦争敗北によって宗家の所領が削減し、それに伴って宗家に統合されて消滅した。


○宮城県

仙台藩 外様
伊達家 62万5000石 仙台城
   他に陸奥国刈田に白石城(城代片倉家)
幕末/明治の藩主:伊達慶邦、伊達宗基、伊達宗敦
陸奥国全域を領有した外様藩。伊達政宗を祖とする伊達宗家が支配した。仙台藩は、奥羽鎮撫総督府に対して会津藩、庄内藩の赦免を懇願したが、奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵によって拒否されると、藩士らは世良を殺害。奥羽越列藩同盟を結成して盟主となる。秋田戦争、会津戦争等各地に兵を派遣した。旗巻峠の戦いを経て領内に新政府軍の侵入を許すと、分家筋の宇和島藩の仲介で降服した。しかし、無傷であった星恂太郎率いる洋式精鋭部隊の額兵隊は、降伏を潔しとせず箱館の旧幕府勢力と合流。箱館戦争に参加した。
仙台藩庁ブログ記事→宮城県仙台市 仙台城
仙台藩支城ブログ記事→宮城県白石市 白石城


○福島県

会津藩→斗南藩
 親藩
保科松平家 23万石+南山御蔵入領5万5千石
会津若松城(鶴ヶ城A)→斗南陣屋
   他に陸奥国会津に猪苗代城(城代高橋家)
幕末/明治の藩主:松平容保、松平喜徳
陸奥国会津郡を領有する親藩で、徳川秀忠の四男保科正之を祖とする会津松平家が治めた。南山御蔵入領5万石も預かり地として任され、実収入は御三家をも上回るとされる。文久2年、第9代藩主松平容保は京都守護職となり京都の治安を守るが、このことにより将軍家、庄内藩と共に賊軍となってしまう。鶴ヶ城に篭城して戦うが、約1ヶ月後に降伏。家老の萱野権兵衛が責任を取って切腹となった。明治2年に家名存続が許され、斗南藩を立藩した。
会津藩のページへ
会津藩庁ブログ記事→未訪問

斗南藩庁ブログ記事→青森県むつ市 斗南藩関連史跡@AB


福島藩→重原藩 譜代
板倉家 3万石
 福島城
幕末/明治の藩主:板倉勝顕、板倉勝己、板倉勝達
陸奥国南部を領有した譜代藩。重昌流板倉家が支配した。佐幕藩として江戸市中取締を命ぜられる。大政奉還に際しては、新政府に恭順の姿勢を示したが、奥羽越列藩同盟の結成にともないそれに参加。新政府軍を迎え撃ったが、二本松城の落城を期に降服し、戦後に福島城を引き渡し、飛地である重原の陣屋を藩庁として重原藩となった。
福島藩庁ブログ記事→福島県福島市 福島城跡
重原藩庁ブログ記事→愛知県刈谷市 重原陣屋跡


相馬中村藩 譜代
相馬家 6万石
 中村城
幕末/明治の藩主:相馬充胤、相馬誠胤
陸奥国標葉郡や宇多郡を領有した譜代藩。相馬家が支配した。奥羽越列藩同盟に参加し、浜街道を北上してきた新政府軍を迎え撃った。形勢が不利になると、同盟から離脱し降伏。中村城には奥羽鎮撫総督四条隆謌が入り、新政府軍の拠点となった。
相馬中村藩庁ブログ記事→福島県相馬市 相馬中村城跡@A

下手渡(三池)藩 譜代 →三池藩北九州の諸藩


二本松藩 外様
丹羽家 10万石
 霞ヶ城
幕末/明治の藩主:丹羽長国、丹羽長裕
陸奥国南部を領有した外様藩。丹羽長秀の嫡流である丹羽家が支配した。忠君愛国の教育が家臣団に深く根づいていたが、軍制の近代化に乗り遅れていた。第10代藩主丹羽長国は、病弱で、実質的に藩政を差配していた家老丹羽一学の主導の下、奥羽越列藩同盟に参加。重要拠点である白河城の攻防戦に兵を派遣したが敗北。新政府軍により霞ヶ城は包囲され、丹羽一学以下重臣7名は自刃。城は炎に包まれた。城外では12歳から17歳の年少の若者達で構成された二本松少年隊が、指揮官を失いその多くが戦死した。
二本松藩庁ブログ記事→福島県二本松市 霞ヶ城


三春藩 外様
秋田家 5万石
 三春城
幕末/明治の藩主:秋田肥季、秋田映季
磐城国田村郡を領有した外様藩。安倍貞任の後裔を称する秋田家が支配した。新政府軍に恭順の姿勢を示していたが、奥羽越列藩同盟が結成されるとこれに参加する。棚倉城陥落と、仙台藩の棚倉藩放棄、平潟への新政府軍の上陸により、奥羽越列藩同盟に反旗を翻した。戦後、この裏切り行為が非難され、長く汚名を着る事となる。
三春藩庁ブログ記事→
福島県三春町 三春城跡


守山藩
 親藩
水戸藩支藩
水戸松平家 2万石 守山陣屋
幕末/明治の藩主:松平頼升、松平頼之

【定府】
水戸藩2代藩主徳川光圀の弟松平頼元が、水戸藩より2万石を分与されて立藩。守山藩は立藩以降、明治まで7代の藩主が代々直系で家督を相続している非常に珍しい藩であった。
守山藩庁ブログ記事→未訪問


棚倉藩 譜代
阿部家 10万石
 棚倉城
幕末/明治の藩主:阿部正静、阿部正功
磐城国白河郡周辺を領有した譜代藩。忠秋系阿部家が支配した。奥羽越列藩同盟が結成されるとこれに参加。白河口で会津兵や二本松兵と共に、新政府軍と戦った。平潟に新政府軍の増援が上陸したことをきっかけに、板垣退助率いる白河城駐屯の新政府軍は、棚倉城に攻め込んだが、仙台藩は白河城攻略を優先し、棚倉城に援軍を送らず、棚倉城はその日のうちに陥落。棚倉藩は降服した。
棚倉藩庁ブログ記事→福島県東白河郡 棚倉城跡


磐城平藩 譜代
安藤家 6万7000石→4万石
 磐城平
幕末/明治の藩主:安藤信正、安藤信民、安藤信勇
磐城国菊多郡や楢葉郡を領有した譜代藩。代々幕政に関わった安藤家が支配した。第5代藩主安藤信正は、桜田門外の変の後、老中として幕政を主導。しかし、坂下門外の変で失脚し、隠居処分に処されたうえに厳封される。戊辰戦争では、佐幕を貫き奥羽越列藩同盟に加入して新政府軍と戦うが、三次にわたる磐城平城攻防戦で敗北。磐城平城は焼失した。
磐城平藩庁ブログ記事→福島県いわき市 磐城平城跡


湯長谷藩 譜代
内藤家 1万5000石
 湯長谷陣屋
幕末/明治の藩主:内藤政敏、内藤政養、内藤政憲
磐城国磐前郡の一部を領有した譜代藩。内藤家が支配した。新政府軍より会津攻撃支援の命令を受けるが、奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍に反目。第13代藩主内藤政養は12歳ながら、自ら戦陣に立ったという。しかし新政府軍の攻撃により湯長谷陣屋が攻略され、政養は仙台城下に避難した。藩内の白水村から石炭が発見され、後に湯長谷は常磐炭田の一大産業地になった。
湯長谷藩庁ブログ記事→福島県いわき市 湯長谷陣屋跡


泉藩 譜代
本多家 2万石
 陣屋
幕末/明治の藩主:本多忠紀、本多忠伸
磐城国菊多郡を領有した譜代藩。本多家が支配した。歴代藩主は幕政に関与し、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟する。しかし新政府軍の攻撃により泉陣屋が攻略され、第6代藩主本多忠紀は仙台城下に避難した。
泉藩庁ブログ記事→福島県いわき市 泉陣屋跡



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