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幕末・維新の軍艦

あ行


旭日丸
あさひまる
1855日本製
幕府
嘉永7年、海防体制の強化を図るため幕府から水戸藩に建造命令が下され、幕府直轄地に水戸藩が整備した石川島造船所で竣工した。旭日丸は水戸藩から幕府へと献上され、幕府海軍で運用された。慶応2年の第二次長州征討では、富士山丸、翔鶴丸及び一番八雲丸とともに周防大島に上陸作戦を実施。周防大島沖に停泊中のところを、高杉晋作率いる丙寅丸に奇襲されたが、応戦できないまま離脱。この海戦の結果、実害はほとんど無かったが、幕府艦隊は周防大島沖から撤退してしまった。戊辰戦争を生き延びた本船は、明治維新後も輸送船として引き続き使用された。樽廻船船主の嘉納治郎作に取得され、沿岸での海運に従事した。

船長・指揮官:−
全長:42.3m 全幅:9.7m 機関:帆船
旧名:−



いろは丸
いろはまる
1862英国製
大洲藩
慶応2年、 大洲藩の郡中奉行であった国島六左衛門が、長崎において坂本龍馬と五代友厚の仲介によりポルトガル領事から蒸気船アビソ号を3万3600両で購入。いろは丸と改名。幕府には城下町人の購入船として申告。慶応3年、大洲藩はいろは丸を坂本龍馬の海援隊の海運業務のため、一航海15日につき500両の使用契約を結ぶ。海援隊は長崎より大阪に向けて出発するが、紀州藩船明光丸と衝突し沈没した。この事故は、日本で最初の海難審判事故とされている。

船長・指揮官:坂本龍馬
全長:54m 全幅:5.4m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:アビゾ、アビソ、サーラ



乙丑丸
いっちゅうまる
1854英国製
長州藩

英国で建造され、P&O汽船の所有で中国の上海に係留されていたものを、長州藩が資金5万両で、グラバー商会から薩摩藩の名義で慶応元年に購入。それを亀山社中(海援隊)が操船するという「桜島丸協定」が結ばれ運用された。薩摩藩は「桜島丸」と名付けたが、長州藩では「乙丑丸」と呼んだ。購入後、上海から7300挺の銃を長州に輸送。慶応2年、薩摩藩からの要請に応えて長州からの兵糧500俵を鹿児島に輸送。しかし、幕府による第二次長州征伐が迫っており、薩摩は国難にある長州からの兵糧を謝辞した為、長州へ引き返す。下関に寄港した乙丑丸は下関での海戦に参戦。小倉への渡海作戦に、坂本龍馬が指揮官となって実戦に加わった。龍馬はこの戦いについて戦況図付きの長文の手紙を兄権平に書き送っている。その後、海援隊から戦時の長州藩へ引き渡され、兵員輸送などで活躍するが、明治4年、山口の商人小畑新助に貸し渡された後、下関の商人小田屋藤吉に払い下げられた。


船長・指揮官:坂本龍馬、菅野覚兵衛、中島四郎
全長:45m 全幅:4.3m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:ユニオン、桜島丸



雲行丸
うんこうまる
1855日本製
薩摩藩

安政2年、薩摩藩が和洋折衷船に、試作の蒸気機関を搭載したもので、日本で建造された最初の蒸気船。雲行丸と命名され、江戸の薩摩藩邸前の海で試運転を実施。品川沖に停泊中の薩摩藩の帆船昇平丸の付近まで航行した。安政4年には薩摩本国へと回航し、秋には本国でも試験航海を行った。しかし、特に蒸気漏れが激しく、同船を観察した蘭人カッテンディーケによれば、設計出力12馬力と推定されるところ実力は2〜3馬力に過ぎなかったという。最高速力は6丁櫓の小舟並みと記録され、4〜5ノット程度と推定される。雲行丸と並行して薩摩本国で試作されたていた蒸気機関は、さらに不具合が多く、船載試験も行われたものの失敗に終わった。その後、雲行丸は輸送船や連絡船として使用された。明治維新後は、使用されない状態となり、明治20年代にスクラップとして売却された。蒸気機関は海軍兵学校の教材となっていたが、明治中頃に廃棄処分となった。


船長・指揮官:−
全長:14.5m 全幅:2.7m 機関:外輪式蒸気船
旧名:−



大野丸
おおのまる
1858日本製
大野藩

大野藩では藩主土井利忠の下で藩政改革に取り組み、外国の技術や文化にも目を向け、蘭学の研究や高島流砲術などの洋式兵術の実施につとめた。安政3年、大野藩は北蝦夷地(樺太)開拓を提案。許可を得て実行することになった。大野藩は大型船を保有していなかったため、当初は商人から雇った和船を使用したり、陸路を使ったりしていたが、本格的な開拓と交易のためには船足が速く堅牢な船舶が必要となり、幕府にはたらきかけた。その結果、幕府製の箱館形船舶を大野藩用に建造。完成した船は大野丸と命名。安政6年、大野丸は蝦夷地への最初の航海に出発。その後も何度も蝦夷地と敦賀を往復し、交易物資などを運んでいる。安政6年には、奥尻沖で遭難したアメリカ船ヘスプリングを救助し、幕府とアメリカ政府から謝礼をうけた。交易でかなりの富を大野藩にもたらしたと思われる大野丸であったが、元治元年、択捉島へ鮭の積み取りに向かう途中、根室沖で座礁、沈没した。


船長・指揮官:佐七郎
全長:32.7m 全幅:7.3m 機関:帆船
旧名:−



か行


開成丸
かいせいまる
1857日本製
仙台藩
安政3年、藩命により江戸より三浦乾也を招き、三浦の指揮のもと、天文学者村田明哲が技術責任者として建造。三浦を艦長、村田を副艦長として試験航海を実施した。開成丸の運航成績はきわめて良好であった。その後、米を品川に数度回漕し、石巻で解体された。

船長・指揮官:三浦乾也、
全長:33.3m 全幅:7.6m 機関:帆船
旧名:−


回天丸
かいてんまる
1855独国製
幕府
1855年建造のプロシア軍艦ダンジック号が、公売された結果、英国商人が手に入れ、イーグル号と名付けられた。慶応元年、長崎奉行の服部筑前守常純が購入。第二次長州征討がはじまったため、幕府海軍所属となる。慶応2年に小倉へ回航され、小倉口の戦いに参加。長州藩の砲台等と交戦した。幕府海軍の撤退により長崎を経て江戸に向かい、その後天保山沖警備に従事。故障修理の後、幕府重役の上洛などに使用された。慶応4年、江戸城無血開城と共に、幕府海軍が所有していた軍艦は、新政府軍に譲渡される予定であったが、海軍副総裁榎本武揚がこれを拒否。回天丸を含め、開陽丸、蟠竜丸、千代田形丸の軍艦4隻が、徳川家に残されることになった。この4隻の軍艦を中心とする榎本艦隊は、徳川家の駿府入りを見届けた後、開陽丸を旗艦として、彰義隊残党や遊撃隊など、旧幕府陸軍を乗せ、品川沖を出発。仙台をへて蝦夷地へ渡り、函館港を占領。箱館戦争では主力となって活躍し、開陽丸座礁の後は旗艦となる。宮古湾海戦では、甲鉄艦にアボルダージュ(移乗攻撃)を仕掛けた。函館湾海戦では、度重なる戦闘で損傷し、浅瀬に乗り上げながらも片舷に砲を集めて、浮砲台として戦ったが、 炎上し全壊沈没した。

船長・指揮官:柴誠一、甲賀源吾、根津勢吉
全長:69m 全幅:10.6m 機関:外輪式蒸気船
旧名:ダンジック、イーグル


開陽丸
かいようまる
1866蘭国製
幕府
慶応元年、オランダにて完成。発注時より留学生していた15人と共に、慶応3年に日本に引き渡された。慶応4年、阿波沖海戦で薩摩藩の春日丸、翔鳳丸を砲撃し、翔鳳丸を由岐浦に座礁させ圧倒的な勝利を得る。その後、鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜を大阪から江戸に脱出させた。榎本は海軍副総裁に就任し、江戸城無血開城に至って、開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否。開陽丸を旗艦とした榎本艦隊(回天丸・蟠竜丸・千代田形丸)は、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸)を加えて品川沖を脱走。榎本は総司令官を務めたため、開陽丸艦長には澤太郎左衛門を任命。途中仙台に到着し、大鳥圭介の伝習隊や、土方歳三の新撰組などの旧幕府脱走兵を艦隊に収容。蝦夷地へ渡航する。しかし、江差沖で暴風雨に遭い座礁し沈没した。開陽丸の喪失により新政府軍に対する海上戦力の優位が一挙に崩れ、その後の戦局に大きく影響を及ぼすことになった。

船長・指揮官:榎本武揚、澤太郎左衛門
全長:72.8m 全幅:13.04m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:フォールリヒィター



観光丸
かんこうまる
1853蘭国製
幕府

嘉永6年にオランダで建造される。蘭国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定に贈呈され、日本の最初の蒸気船となる。安政3年に観光丸と改名し、幕府海軍の練習艦として使われる。観光とは、中国の易経の「国之(国の光を観る)」からとったものである。長崎海軍伝習所の閉鎖後は佐賀藩に委託され、同藩の三重津海軍所で運用された。明治元年、明治新政府所管となり、明治9年に除籍され解体された。なお、昭和62年に進水した復元船が、長崎のハウステンボスで就航している。造船は国立アムステルダム海事博物館所蔵の設計図面と模型を基に、オランダのフェロルメ造船所に発注され、当時の姿になるべく近いかたちで復元・建造が行われた。


船長・指揮官:矢田堀鴻、佐野常民、坂本龍馬
全長:65.8m 全幅:9m 機関:外輪式蒸気船
旧名:スームビング



咸臨丸
かんりんまる
1857蘭国製
幕府
安政4年、オランダにて完成。長崎海軍伝習所の練習艦となる。万延元年、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断。咸臨丸はポーハタン号の護衛艦として、同行する。艦長は勝海舟。木村摂津守が提督。そのほか福澤諭吉やジョン万次郎らも乗船した。航海経験者の万次郎以外の日本人船員は大半が船酔いをしてしまい、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉他、アメリカ人乗員の助けを借りての航海であった。文久2年には小笠原諸島を巡視し、父島と母島を捜索。慶応2年、酷使が祟り、疲弊が激しく故障頻発していた蒸気機関を撤去し帆船となった。明治元年、海軍副総裁榎本武揚の指揮で品川沖を脱走するが、銚子沖で暴風雨に遭い艦隊とはぐれ、下田港に漂着。救助に来た蟠竜丸と共に清水へ入港。蟠竜丸は先に出航。函館に向かった。しかし、咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれ、戦闘。乗組員の多くは戦死または捕虜となる。以後、明治政府に接収され、明治4年に小樽へ向け出航したが、暴風雨により沈没した。

船長・指揮官:勝海舟、小野友五郎
全長:48.8m 全幅:8.74m 機関:スクリュー式蒸気船→帆船
旧名:ヤパン



癸亥丸
きがいまる
1843英国製
長州藩

文久3年、長州藩御用商人の佐藤貞次郎を介して購入。購入年の干支にちなんで癸亥丸と改名。もともとは商船であるが、10門の大砲を装備させて軍艦とした。下関戦争が始まると、米商船ペンブローク攻撃を手始めに、仏艦キャンシャン、蘭軍艦メデューサと交戦。メデューサの反撃でマスト基部に1弾を受けたが、死傷者は無し。しかし、米軍艦ワイオミングの報復攻撃を受けた際に、砲弾2発を浴びて大破。僚艦2隻は撃沈される敗北を喫した。下関戦争後、復旧工事を受けて再就役。第二次長州征討では幕府方を迎え撃つために出撃。門司上陸戦支援の艦砲射撃を行った際には、小倉藩砲台の反撃で損傷した。後の戊辰戦争でも、藩兵を輸送するなど活動した。


船長・指揮官:福原清介
全長:?m 全幅:?m 機関:帆船又は蒸気船
旧名:ランリック



庚申丸
こうしんまる
1860日本製
長州藩

万延元年、竣工。竣工年の干支にちなんで庚申丸と命名された。庚申丸は、先の丙辰丸に比べ大型であったため、建造費も約5倍と高額になった。長州藩の軍艦として配備され、練習艦として使用された。下関戦争が始まると、米商船ペンブロークなどを攻撃。しかし、米軍艦ワイオミングの報復攻撃を受けて、壬戌丸とともに砲撃で撃沈。下関戦争後、本艦は復旧工事を受けて再就役。第二次長州征討では幕府方を迎え撃つために出撃し、門司上陸戦支援の艦砲射撃を実施。後の戊辰戦争でも、藩兵を輸送するなどの活動をした。


船長・指揮官:山田鴻二郎、松島剛蔵
全長:43m 全幅:8m 機関:帆船
旧名:−



甲鉄艦(東艦)
こうてつかん(あずまかん)
1864仏国製
明治政府

慶応3年に幕府の訪米使節がアメリカにストーンウォール(甲鉄艦の旧名)の買取を約束したが、翌年に幕府が瓦解すると、新政府側でもストーンウォールを買い取りたいとアメリカに申し出た。旧幕府側はこれに反発。アメリカ側は、戦争の決着がつくまでストーンウォールをどちらにも売る気はないと、中立を宣言。しかし奥羽越列藩同盟が崩壊し、旧幕府海軍が蝦夷地へ渡って蝦夷共和国を樹立させた頃には、明治政府が新たなる政府であることを認めて中立を撤廃。明治2年ストーンウォール購入し甲鉄艦と命名。宮古湾に入港させた。甲鉄艦に驚異を感じた蝦夷共和国軍は甲鉄艦の奪取作戦(アボルダージュ作戦)を実行。回天を旗艦とし、蟠竜、高雄の3隻で宮古湾を襲撃。回天を甲鉄艦に接舷させ斬り込むが、ガトリング砲などに阻まれ撤退した。その後、明治政府軍の旗艦として函館湾海戦に参加。蝦夷共和国艦隊を撃破する。明治4年、艦名を東艦と改める。明治21年、老朽化の為に除籍。解体のため民間に売却された。


船長・指揮官:伊東祐亨、井上良馨、山崎景則、瀧野直俊、国友次郎、伊地知弘一
全長:58.97m 全幅:9.6m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:ストーンウォール



さ行


USS Susquehanna
サスケハナ
1862米国製
アメリカ海軍

黒船という呼び名で知られるペリー艦隊の旗艦。黒船の名の由来は木造の船体に塗られた防水腐食防止用のピッチによる。就役後、東インド艦隊の旗艦となる。嘉永6年、浦賀に入港。幕府に対し大統領の親書を手渡した。嘉永7年、サスケハナ、ミシシッピ、ポーハタンの3隻の蒸気船を含む7隻の艦隊は条約締結を求め日本に再訪し、神奈川で日米和親条約を調印。艦隊は下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。その後地中海艦隊の旗艦となる。アメリカで南北戦争が勃発すると、大西洋封鎖艦隊に配属。南北戦争中は主に大西洋で活躍し、その後1868年に退役した。そして1883年に売却され、スクラップとなった。


船長・指揮官:オーリック、ペリー、サンズ、デュポン、ゴードン
全長:78.3m 全幅:13.7m 機関:外輪式蒸気船
旧名:−



USS Saratoga
サラトガ
1842米国製
アメリカ海軍

嘉永6年、ペリー艦隊の一隻として日本に来航した黒船。4隻のうちサスケハナ、ミシシッピは蒸気船であったが、このサラトガと、プリマウスは帆走スループ艦であった。翌年にも日本に来航し、日米和親条約を締結させた。その後はアメリカ南北戦争等に参加、退役後は練習船として活躍。1907年に売却され、スクラップとなった。


船長・指揮官:タットノール、シュブリッチ、ファラガット
全長:44.6m 全幅:10.74m 機関:帆船
旧名:−



壬戌丸
じんじゅつまる
1862英国製
長州藩

英国ジャーディン・マセソン商会の鉄製蒸気船ランスフィールドを長州藩が購入。この年の干支にちなんで壬戌丸と名付けられた。文久3年に長州藩は外国船攻撃を開始し、攘夷を実行。しかし、長州藩保有艦船4隻の中で最大だった壬戌丸は、武装が貧弱な為に積極的な攻撃任務には使われなかった。同年に、報復に襲来した米軍艦ワイオミングの攻撃を浴び、真っ先に沈没させられた。後に船体は引き上げられ、幕府の長州征討に備える武器購入用の外貨獲得目的で、上海に回航されて売却された。この売却行為は、第二次長州征討の口実のひとつともされた。


船長・指揮官:山田亦介、北条源蔵
全長:70m 全幅:?m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:ランスフィールド



神速丸
じんそくまる
1861米国製
幕府

1861年にアメリカのシャムロで建造。幕府が47,500ドルで購入し、元治元年に箱館で受領した。慶応4年の戊辰戦争、江戸城無血開城によって幕府が瓦解し、明治政府への譲渡が約束されていたが、海軍副総裁榎本武揚はこれを拒否して品川沖を脱走。仙台を経て蝦夷地へ渡航した。神速丸は蝦夷地到着後、旧幕府軍が箱館を占拠したのを見届けて箱館港へ入港、そのまま待機していた。その後、開陽丸が江差沖で座礁したと言う知らせを受けて、回天丸と共に急ぎ救助に向かったものの、開陽丸と同じく江差の風浪に煽られて座礁、沈没した。


船長・指揮官:西川真蔵
全長:41.6m 全幅:5.1m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:メテオ



晨風丸
じんぷうまる
1858日本製
佐賀藩

長崎海軍伝習所が「長崎形」を安政4年に竣工。同年、佐賀藩は自藩で運用するために同型船1隻を長崎大波止で起工。翌安政5年に進水させ晨風丸と命名。進水式には藩主の鍋島直正自らも臨席している。竣工した晨風丸は、佐賀藩軍港三重津海軍所に回航されて使用された。戊辰戦争にも軍用艦として参加した。


船長・指揮官:−
全長:21.8m 全幅:5.8m 機関:帆船
旧名:−



た行


第一丁卯丸
だいいちていぼうまる
1867英国製
長州藩

慶応3年、ロンドンで建造。慶応4年に長州藩が購入。当初の艦名は「丁卯丸」と呼ばれた。別の文献では、発注が慶応2年で、竣工と日本回航が慶応4年という資料もある。寺泊沖海戦で、旧幕府輸送艦順動丸を自沈させた。その後、箱館湾海戦に参加した。明治3年に政府に献納。兵部省所管となり第一丁卯と改名され、翌4年に六等艦と定められた。明治6年、測量任務に従事。明治8年にはラッコの密漁取り締まりの為に、択捉島に派遣されていたところ、濃霧のため針路を誤り、同島西岬に座礁した。


船長・指揮官:杉盛道、伊東祐亨、磯辺包義、磯辺包義、坪井航三
全長:36.58m 全幅:6.4m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:ヒンダ



第二回天(高雄丸)
だいにかいてん(たかおまる)
1863米国製
幕府

1863年、米国でポータクセット級の2番艦として建造された。ポータクセット級は、6隻建造され、その中の3隻が日本が購入した。秋田藩に購入され高雄丸と命名される。その後、榎本武揚らの箱館政権の手にわたり、第二回天と改名された。箱館政権は主力艦開陽丸を座礁で失ったため、新政府軍の甲鉄艦を奪取する作戦に、高雄丸は回天丸、蟠竜丸と共に参加。3隻は箱館を出航後、悪天候に遭遇し、第二回天は機関が故障。作戦に参加できずに箱館へと戻る。回天丸1隻で宮古湾に侵入し、第二回天はその後を追った。回天丸は甲鉄艦に接舷したが、作戦は失敗。回天丸は宮古湾を離脱。遅れて第二回天が到着。作戦失敗を知った第二回天も脱出を試みたが、新政府艦隊から逃げ切れず、座礁した。


船長・指揮官:古川節蔵
全長:42m 全幅:8.08m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:アシュロット



第二丁卯丸
だいにていぼうまる
1867英国製
長州藩

慶応3年、ロンドンで建造。慶応4年に長州藩が購入。第二丁卯丸と命名された。明治3年に明治政府に献納。これにより兵部省所管となり第二丁卯と改名された。翌明治4年に六等艦と定められた。明治5年には測量任務に従事した。明治8年の江華島事件発生の際には、雲揚や春日などと共に釜山沖に派遣。しかし、江華島での直接の交戦には参加していない。明治10年に勃発した西南戦争では下関の警備に従事。また、日奈久攻略にも参加した。明治18年、明治天皇の福岡行幸の護衛艦として神戸港に回航中、三重県安乗崎で座礁した。


船長・指揮官:山崎景則、杉盛道、東郷平八郎、池辺尚能、松岡方祇
全長:36.58m 全幅:6.4m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:アソンタ



達観丸
たっかんまる
竣工年不明蘭国製
広島藩

文久3年、広島藩が英国より購入。


船長・指揮官:−
全長:32.4m 全幅:9m 機関:帆船
旧名:−



長鯨丸
ちょうげいまる
1864英国製
幕府

1864年に英国グラスゴーで竣工したイギリスの鉄製汽船ダンバートン。慶応2年に江戸幕府が購入。長鯨丸と命名した。戊辰戦争では榎本艦隊の運輸船として参加した。戦後、軍務官所管となったが民部省へ移管された。その後は民間に交付、「万里丸」と改名され明治13年まで使用された。更に三菱会社で浮き倉庫として使用された。


船長・指揮官:森本弘策、磯辺包義
全長:77.6m 全幅:11.2m 機関:外輪式蒸気船
旧名:ダンバートン



朝陽丸
ちょうようまる
1856乱国製
幕府

安政元年、咸臨丸と共に幕府より発注され、蘭国キンデルダイク造船所で竣工した。蟠竜丸、咸臨丸と共に初期の幕府海軍主力艦として活躍する。文久3年、長州藩の外国船砲撃では、使節団を現地へ輸送したが、長州藩兵に一時占拠される。慶応4年、幕府が瓦解すると新政府軍によって徴収され、箱館戦争に出動。箱館湾海戦で、蟠竜丸に撃沈された。


船長・指揮官:矢田堀鴻、中牟田倉之助
全長:49m 全幅:7.27m 機関:外輪式蒸気船
旧名:エド



千代田形
ちよだがた
1866日本製
幕府
慶応2年、幕府軍艦としては初の国産蒸気砲艦として建造される。慶応4年に戊辰戦争が勃発。江戸城無血開城にともなって新政府軍への譲渡を約束されていたが、海軍副総裁榎本武揚がこれを拒否。旧幕府脱走兵らを収容して奥州へ運送。その後、榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊の1隻として品川沖を脱出。仙台に待機していた千代田形は、長崎丸と共に庄内藩の援護に向かうが、新政府軍の圧倒的な攻勢に上陸を断念。仙台を出航して蝦夷地へ渡航。明治2年、箱館湾海戦で新政府軍と戦闘。箱館港で暗礁に乗り上げ座礁し、乗組員は脱出する。しかし、潮が満ちて千代田形丸は離礁。漂流中に新政府軍によって拿捕された。その後、艦籍を政府軍に移し、海軍兵学寮の練習艦として使用される。
船長・指揮官:森本弘策、磯辺包義
全長:31.3m 全幅:4.8m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:−



電流丸
でんりゅうまる
1856蘭国製
佐賀藩

安政3年に蘭国ロッテルダムで竣工。安政5年に佐賀藩が10万ドルで購入。三重津海軍所で電流丸の蒸気罐製造の製作場が設けられ田中久重らがその担当者となっていたことや、キールの銅板が張替えられた記録が残っている。明治元年に新政府軍が徴発した。明治元年に大阪天保山沖で日本で初めての観艦式が行われた。この時は観兵式の名称で行われ、旗艦として参加。明治4年に国軍への献納の申し出があったが老朽艦のため砲のみ受け取り、同年6月に伊万里で売却解体された。


船長・指揮官:真木長義
全長:49.1m 全幅:8.18m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:ナガサキ



な行


日進丸
にっしんまる
1869蘭国製
佐賀藩

慶応3年、佐賀藩士佐野常民が蘭国のギプス社に発注。明治2年に完成。明治3年に長崎に回航され、日進丸と命名されたが、政府海軍籍となり日進艦と改名した。日本海軍草創期の主力艦として活躍し、台湾出兵、西南戦争などに参加。日本で巡洋艦と呼称された最初の軍艦である。


船長・指揮官:真木長義、福島敬典、伊東祐亨、山崎景則、有地品之允、坪井航三、尾形惟善、
新井有貫 、窪田祐章、町田実隆、横尾道c、小田亨、舟木錬太郎、藤田幸右衛門
全長:62m 全幅:9.7m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:−



は行


蟠竜丸
ばんりゅうまる
1856英国製
幕府

安政5年、日英修好通商条約に調印するために来日した英国使節ジェームズ・エルギン伯爵により、ビクトリア女王の名において将軍に寄贈された。慶応4年の江戸城無血開城にあたって新政府軍への譲渡が約束されていたが、海軍副総裁榎本武揚が天候不良などを理由にこれを延期し、最終的には拒否。松岡磐吉を艦長として開陽丸・回天丸・神速丸などとともに品川沖を脱出、蝦夷地に渡り、箱館戦争において旧幕府海軍の主力艦となった。箱館湾海戦では弁天台場や座礁させて砲台となった回天丸に援護されながら、一艦で新政府軍艦隊に応戦。箱館総攻撃の際には新政府軍艦朝陽丸の火薬庫に砲撃を命中させ轟沈させた。しかし、新政府軍の集中砲火を浴びて座礁した。その後、上海で修理され大規模な改修を受ける。明治6年に開拓使が購入、雷電丸と改名。明治10年、日本海軍の軍艦となって雷電と改名し、横須賀に配備。明治21年に廃艦となり、高知県に無償で払い下げされて捕鯨船となった。


船長・指揮官:松岡磐吉
全長:42.2m 全幅:6.4m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:エンペラー



USS Plymouth
ぷりまうす
1844英国製
アメリカ海軍

嘉永6年、ペリー艦隊の一隻として日本に来航した黒船。4隻のうちサスケハナ、ミシシッピは蒸気船であったが、このプリマウスと、サラトガは帆走スループ艦であった。翌年にも日本に来航し、日米和親条約を締結させた。1861年に退役、スクラップとなった。


船長・指揮官:−
全長:45m 全幅:11.61m 機関:帆船
旧名:−



丙寅丸(オテント丸)
へいいんまる(おてんとまる)
1865英国製
長州藩

慶応2年に、高杉晋作が独断で英国商人グラバーより購入。その年の干支にちなんで丙寅丸と名付けられる。幕府軍により占領された周防大島の幕府艦隊に、奇襲攻撃を敢行。眠りについている幕府艦隊の間に、丙寅丸を割り込ませて縦横無尽に大砲を撃ち、幕府艦隊を混乱させる。幕府軍の軍艦は蒸気機関の釜の火を落としてしまっている為、幕府軍の軍艦はすぐに動くことができず、丙寅丸はひと暴れした後に戦場を離脱。三田尻へ帰還している。小倉方面の開戦時には、幕府艦隊を陽動し、長州艦隊に引きつけられている隙をつき、奇兵隊を主力とする陸兵を小倉口へ上陸させた。その後、戊辰戦争で活躍。維新後は民間に払い下げられ、貨客船として活躍した。


船長・指揮官:高杉晋作
全長:36.9m 全幅:4.5m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:テント、オテントサマ



丙辰丸
へいしんまる
1857日本製
長州藩

幕府が建造した君沢形帆船の造船技術を参考とし、安政3年に建造を開始。安政3年に進水し、その年の干支にちなんで丙辰丸と命名された。長州藩最初の洋式軍艦となり、藩主毛利敬親観覧の下で試運転が行われた。その後、練習艦や大阪との間の輸送船などとして運用。万延元年には松島剛蔵を艦長として江戸への遠洋航海を実施。その際に船上で水戸藩士らとの間で急進的な幕政改革に関する密約が取り交わされた。小倉口の戦いでは、数少ない長州方の軍艦として活躍。戊辰戦争でも実戦参加した。明治3年、萩の商人に払い下げられた。


船長・指揮官:松島剛蔵
全長:25m 全幅:?m 機関:帆船
旧名:−



USS Pawhatan
ぽーはたん
1852米国製
アメリカ海軍

1852年、ノーフォーク海軍工廠製。米国本国艦隊の旗艦となる。東インド艦隊に配属される。そこでポーハタンはペリー代将の日本再訪艦隊に加わり、日本へ向かう。1854年2月13日にペリーは旗艦サスケハナ、ミシシッピ など7隻の軍艦を率いて江戸湾へ入港。江戸湾到着後に旗艦はポーハタンに移された。嘉永7年、日米和親条約を調印。その後条約の細則の交渉のため艦隊は伊豆下田に移動するが、下田停泊中、ポーハタンに吉田松陰が密航を訴える事件もあった。安政5年には、日米修好通商条約がポーハタンの艦上で調印。安政7年、ポーハタンは正使の新見正興、副使の村垣範正、監察の小栗忠順らを含む日本使節団77人を乗せサンフランシスコに向かう。その後は南北戦争等に参加。1886年に退役した。


船長・指揮官:ニュートン、ペリー、タットノール、ポーター、ラードナー
全長:77.32m 全幅:14m 機関:外輪式蒸気船
旧名:−



ま行


USS Mississippi
ミシシッピ
1841米国製
アメリカ海軍

ペリーの日本来航の際の四隻の黒船の1隻。ミシシッピは1845年にペリー代将の西インド艦隊の旗艦となる。その後、日本訪問艦隊の1隻となり(旗艦はサスケハナ)、嘉永6年、嘉永7年と2度日本に来訪した。幕府と日米和親条約を締結した。1857年、再び極東に派遣され、上海を基地に急拡大しつつある米国の東洋貿易をサポートした。その後、アメリカ南北戦争に参加。1863年、ハドソン港に出港した。ハドソン港を守る砦の前を通過したとき、座礁してしまう。敵の砲弾が降り注ぐ中、鹵獲を避けるため自沈した。


船長・指揮官:オーリック、ペリー、タットノール
全長:70m 全幅:12m 機関:外輪式蒸気船
旧名:−



明光丸
めいこうまる
1861英国製
紀州藩

元治元年、英国商人グラバーから紀州藩が購入し、明光丸と改名。慶応3年、長崎に航行中、大洲藩所有で海援隊が使用するいろは丸と、笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島付近で衝突。明光丸は軽い被害ですんだが、いろは丸は沈没した。この事故で紀州藩が賠償金として7万両を支払うこととなった。慶応4年、鳥羽・伏見の戦い後、敗北した会津藩兵等が紀州藩領に逃げ込んだが、これを明光丸が江戸や三河へ運んだ。その後も紀州藩の御用あるいは貨客船として使用され、明治2年には紀ノ国屋萬蔵らに貸し出され、神戸-横浜間を連絡していた6隻の蒸気船のひとつとして運用され、明治3年には紀伊国屋萬蔵と菱屋宇兵衛に払い下げられた。紀萬船は日本国郵便蒸気会社に統合されたためふたたび国策会社の所有となり、のち三菱会社の所有となった。明治7年の台湾出兵のさいに徴用され一時国有化された。


船長・指揮官:高柳致知
全長:76.36m 全幅:11m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:バハマ



孟春丸
もうしゅんまる
1867英国製
佐賀藩

慶応3年にロンドンで建造されたイギリスの軍艦。慶応4年、長崎で佐賀藩が購入し孟春丸と改名。この年の2月、本艦と豊瑞丸、雄飛丸が日本で初めて艦隊行動を行い、大阪から横浜まで兵員の輸送を行う。明治元年の戊辰戦争では榎本艦隊を追い奥州へ進出。明治2年、岩手県鋤ガ崎沖で津波により座礁した。修復後の明治4年に佐賀藩から明治政府に献納され、以後、日本海軍の軍艦として活躍。台湾や朝鮮等の戦役にも参加した。


船長・指揮官:瀧野直俊 磯辺包義 伊地知弘一 野村貞 原田元信 高木安行 飯田信臣 吉田重親
全長:44.5m 全幅:6.6m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:ユージニー



や行


HMS Euryalus
ゆ−らいあす
1853英国製
イギリス海軍

文久2年に横浜に来航。生麦事件への報復として薩摩を攻撃(薩英戦争)。ユーライアスは旗艦として戦闘に参加。艦長、副長が砲撃により戦死した。文久4年には、四ヶ国連合艦隊と共に下関を攻撃した。


船長・指揮官:ジョスリング、キューパー
全長:?m 全幅:?m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:−



ら行


凌風丸
りょうふうまる
1865日本製
佐賀藩

開明的な藩主鍋島直正の下で西洋軍事技術の導入に熱心だった佐賀藩は、早くから近代海軍の整備にも取り組み、西洋式艦船の国産化を決定。文久3年、佐野常民や中牟田倉之助らを責任者として、蒸気船の起工を開始。慶応元年に竣工、「凌風丸」と命名され、日本で最初の実用級蒸気船となった。より古い国産蒸気船として薩摩藩の雲行丸は安政2年に竣工しているが、小型で船体も和洋折衷の実験的な船で、機関の完成度も低かった。また、幕府も先登丸という蒸気船を建造しているものの、詳細が不明で、どの程度の実用性があったのかもわかっていない。同じく幕府が建造した蒸気軍艦千代田形は、起工は文久2年で本船よりも先行していたが、竣工は後になっている。就役後、藩主鍋島直正が乗船して諫早湾の航海を行っている。その後も有明海での要人輸送などに使用。明治3年、有明海の竹崎鼻付近で座礁して廃船となり、外国人に売却された。


船長・指揮官:−
全長:18.2m 全幅:3.3m 機関:外輪式蒸気船
旧名:−



わ行


USS Wyoming
わいおみんぐ
1859英国製
アメリカ海軍

文久3年、長州藩は攘夷の決行として関門海峡を通過する外国籍商船を攻撃。この時期のアメリカは南北戦争の最中で、ワイオミングは南軍の襲撃艦アラバマの追跡のためにアジアに派遣されていたが、アメリカ商船が攻撃を受けたことを知らされただちに報復攻撃を決意し、下関に向かう。長州砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見。壬戌丸に狙いを定めて砲撃。壬戊丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈。庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし庚申丸を撃沈。癸亥丸は大破した。その後、アラバマ追跡の任務に戻り、地球を一周して本国へ帰還。オーバーホール後に、東インド艦隊、北大西洋艦隊、ヨーロッパ艦隊と就役。1882年に任務を解かれ、海軍兵学校の管理下に入り、海軍兵学校生徒の練習艦となった。


船長・指揮官:ミッチェル、マクドゥガル、バンクヘッド、デービス
全長:60.5m 全幅:10.11m 機関:スクリュー式蒸気船
旧名:−




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