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高杉晋作の逸話

〜事実か?フィクションか?伝えられている晋作のエピソードをご紹介します〜
■幼少の頃、晋作が正月に凧揚げをしていた。その凧を一人の武士が誤って踏んで壊してしまった。その武士は誤りもせずにそのまま帰ろうとしたが、晋作は呼び止めて謝罪を求めた。しかし、その武士はそれに答えず立ち去ろうとした。武士は高杉家と同格の家柄である。晋作は激怒し、泥を掴んで拳を振り上げた。武士は藩主から拝領した羽織を着用していたので、汚されては困ると謝ったが、それでも晋作は許さず土下座を要求。武士は仕方なく土下座をしたという。

■疱瘡にかかり瀕死となった10歳の晋作は、シーボルトに教授を受けた蘭方医青木周弼の治療により回復した。

■晋作に松下村塾を紹介したのは、久坂玄瑞であった。二人は門下の双璧と呼ばれた。

■東京の靖国神社や、全国の護国神社の元祖(鎮魂社)、「桜山神社招魂場」を提唱したのは高杉晋作である。

■孝明天皇の加茂行幸に随行した将軍徳川家茂らの行列が、三条大橋付近に差し掛かると、晋作は「征夷大将軍!」と、皮肉めいた掛け声をかけた。無礼打ちになりかねないところであったが、行列は声の聞こえた方向をにらみつけただけで通り過ぎた。

■都都逸「三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」は晋作の作である。


■松蔭の遺体を改葬する際、晋作は馬にまたがり三枚橋 中の橋を渡ろうとした。ここは将軍専用の橋で、諸侯以下庶民は左右の橋を渡るのが決まりであった。橋の番人は晋作を止めるが、「殉難した攘夷志士の遺骨を運ぶのに咎めを受けるいわれはない」と番人を叱咤した。番人が驚いて怯んでいるうちに晋作達一行は、中の橋を悠々と渡り終えた。

■晋作は、刀を抜くのが早かった。

■晋作は白昼堂々宿駕籠で箱根の関所に乗り打ち、関所やぶりをした(当時、関所破りは死罪)。

■晋作の好物は鯛のあら煮と長州鮨(鯛の押し鮨)。

■晋作は藩に無断でグラバーから軍艦を購入する。晋作にはその権限もお金も無かった。事後承諾によって不問とされたが、後の対幕戦においてこのときの軍艦が活躍することになる。

■白石正一郎の弟大庭伝七に「死後は墓前で芸妓などをあつめ、三味線など鳴らしてお祭りくださるよう」と遺言めいた手紙を送った。

■大島口の戦いでは、晋作は小型の軍艦丙寅丸に乗り込み、停泊中の大型軍艦四隻に奇襲をかけた。丙寅丸の大砲は軽砲であるため大きな損害を与えることはできなかったが、幕府艦隊は長州海軍の伏兵を恐れ、東へと退却した。

■坂本龍馬愛用のスミス&ウェッソンU型アーミー 32口径は、晋作が贈った。

■晋作は他藩の人間が嫌いであった。

■明治の元勲田中光顕は、高杉晋作の弟子であった。

■田中光顕所有の刀(安芸国佐伯荘藤原貞安)を、晋作が気に入り弟子にする代わりにその刀を譲った。

■萩一の美人であった妻の雅は、くじ引きで高杉家に嫁に行くことを選んだ。

■晋作は道中三味線と呼ばれる分解できる三味線を愛用していた。

■晋作は怒り出すと誰も手がつけられなかったが、入江九一を苦手としていたらしく、入江がなだめると晋作は大人しくなった。以来、松下村塾の人々は晋作が怒り出すと入江になだめてもらうよう頼んだ。

■幼少の頃、近所の円政寺にある真っ赤な天狗のお面を子供たちは恐れていたが、なぜか晋作だけはそのお面が好きだった。

■刑場の処刑見物で、他の子供たちが恐れて泣き出す中、晋作だけは平然と見ていた。

広島県三次市に高杉城という城跡があり、高杉家はそこの城主だという説がある

■アーネスト・サトウは、晋作のことを魔王のようであったと回想している。



                     
随時追加していきます。




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