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高杉 晋作
(1839-1866)
長州藩
贈正四位
(松下村塾門下)
高杉晋作略歴
少年期
萩城下に長州藩士高杉小忠太の長男として生まれる。漢学塾を経て、藩校明倫館に入学。内藤作兵衛に柳生新陰流剣術を学び、のちに免許皆伝。

松下村塾
吉田松陰の松下村塾に入門。藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。安政6年、吉田松陰が安政の大獄で捕らえられるとその獄を見舞うが、晋作の帰郷中に松陰は処刑される。

結婚〜試撃行
防長一の美人と言われた町奉行井上平右衛門の次女まさと結婚。海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦丙辰丸に乗船し江戸へ渡るが、そのまま軍艦を降りて江戸で遊学。佐久間象山や横井小楠と交友する。

上海
藩命により幕府使節随行員として長崎から上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して帰国。大きな影響を受ける。

尊皇攘夷運動
尊王攘夷運動に参加し、各藩の志士たちと交流。文久2年、外国公使刺殺を計画するが、計画が世子毛利元徳に伝わり、謹慎を命ぜられる。その後、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。

奇兵隊結成
文久3年、長州藩は関門海峡を通行する外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗。高杉は下関の防衛を任せられ、身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し総督に就任。しかしその3ヶ月後には教法寺事件の責任を問われ総督を罷免させられる。

禁門の変
八月十八日の政変により、長州藩は京都から追放される。翌年、高杉は脱藩して京都へ潜伏するが、桂小五郎の説得で帰郷し、脱藩の罪で野山獄に投獄、謹慎処分となる。長州藩は蛤御門の変で敗北して朝敵となり、4カ国連合艦隊も下関を砲撃。砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。

功山寺挙兵
幕府による第一次長州征伐が迫り、長州藩では俗論派が台頭。命を狙われた高杉は福岡へ逃れる。平尾山荘の野村望東尼に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還。諸隊を率いて功山寺にて挙兵する。後に奇兵隊らも加わり、俗論派を排斥して藩の実権を握る。

長州内訌戦
挙兵した諸隊は、政府軍と太田・絵堂で激突します。鎮静会議員の活躍により、萩の保守派は失脚。正義派による政府が発足し、潜伏していた桂小五郎を呼び戻します。

逃亡
下関開港を推し進めたことにより、攘夷、俗論両派に命を狙われたため、愛妾うのとともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。桂小五郎の斡旋により帰郷。晋作は高杉家を廃嫡されて育扱いとされ、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる。高杉本家は義兄の春棋が継ぐ。

薩長同盟
土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎を仲介として、薩長同盟が成立。伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられるが、途中の長崎で蒸気船丙寅丸(オテントサマ丸)を購入。藩に呼び戻され薩摩行きは断念する。

幕長戦争
第二次長州征伐では海軍総督に就任。大島口の戦いでは、自ら丙寅丸に乗り込み、幕府艦隊に夜襲を仕掛け大島を奪還する。小倉口の戦いでも、苦戦しながらも幕府軍を敗走させ勝利へと導く。

療養
肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、慶応3年4月14日死去。
「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」

変名:春風、高杉東一、高杉和助、高杉暢夫、楠樹、高杉東行、東行狂生、西海一狂生、
東洋一狂生、谷潜蔵、谷梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助
主な役職:奇兵隊開闢総督、長州海軍総督
剣術:柳生新陰流剣術、神道無念流剣術
墓所:下関市吉田東行庵、霊山護国神社、萩市椿東椎原護国山墓地


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