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水戸藩人物録

水戸藩
        35万石 水戸徳川家 水戸城
支藩:
陸奥守山藩 2万石 森山松平家 森山陣屋
   
常陸府中藩 2万石 府中松平家 府中陣屋
   常陸宍戸藩 1万石 宍戸松平家 宍戸陣屋

水戸藩九代藩主徳川斉昭は藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田派を中心に人材登用を行う。教育改革についても弘道館を建設して整備を行い、水戸学が藩論に強い影響を与えることになった。尊皇攘夷の雄藩としてその名を全国に轟かせたが、藩政の混乱により幕末の主導権を握ることが出来なかった。

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あ行


会沢 正志斎
あいざわ せいしさい
(1782-1863)
水戸藩

「新論」を著した水戸学の代表的思想家
天明2年、水戸藩士会沢恭敬の長男として生まれる。寛政3年、藤田幽谷の青藍舎へ入門。寛政11年には「大日本史」修史局の彰考館の書写生となる。享和3年、江戸彰考館勤務となる。文政4年には藩主徳川治紀の諸公子の教育係を命じられ、後の9代藩主斉昭にも教育する。文政7年、水戸藩領に食料を求めて上陸した英捕鯨船員と会見。翌年に諸外国の侵攻対策について、尊王攘夷論を体系的にまとめた「新論」を著して藩主徳川斉脩に上呈した。文政9年、彰考館総裁代役に就任。文政12年、藩主後継問題で斉昭を擁立する運動に参加し、山野辺義観、藤田東湖らとともに江戸へ出て奔走。奔走の罪で逼塞を命じられたが、許されて郡奉行、通事役、調役となり、また彰考館総裁となった。藩主徳川斉昭から取り立てられ、藩政改革を補佐。天保9年には、学校造営掛に任じられ、「学制略説」などを著す。天保11年、藩校弘道館の初代教授頭取に任じられた。弘化2年、斉昭は幕府から藩政改革の問題点を指摘されて、隠居・謹慎を命じられると連座した。安政5年、日米修好通商条約締結に関して、朝廷から水戸藩に戊午の密勅が下る。会沢は密勅返納を主張し、藩内の尊王攘夷鎮派の領袖として尊皇攘夷激派と対立。文久2年には、一橋慶喜に開国論を説いた「時務策」を提出する。文久3年、水戸の死去。


変名: 会沢市五郎、 会沢安吉
主な役職:彰考館総裁、弘道館頭取
剣術:-
墓所:水戸市千波町


市川 三左衛門
いちかわ さんざえもん
(1816-1869)
水戸藩

天狗党を家族もろとも弾圧した諸生党の首領
文化13年、水戸藩士市川弘教の二男として生まれる。兄の死去により家督を相続。小納戸頭や小姓頭、馬廻頭、大寄合頭等の要職を歴任し、諸生党の重鎮として改革派と対立する。万延元年、藩主徳川斉昭が死去すると、藩内抗争が激化。元治元年に、天狗党が筑波山で挙兵すると、幕府の援助を受けてこれを追討する。攘夷派が盛り返すと、水戸城を占領して抗戦。江戸からの大発勢と筑波勢の攻撃に耐える。天狗党の敗走後は、執政として自ら藩の実権を掌握。天狗党関係者を徹底的に処罰した。明治元年、幕府が江戸城を明け渡して徳川慶喜も水戸に謹慎すると、攘夷派が諸生党追討の勅諚を受け、諸生党の弾圧を開始する。情勢の不利を察し、諸生党約500名を率いて水戸を脱出。奥羽、越後各地を転戦するが、会津降伏後に水戸へ戻って藩校弘道館を占領。改革派と戦い敗走する。銚子、匝瑳に逃れて松山で追討された。市川は江戸市中の寺院や旧友宅に潜伏したが、明治2年に藩の捕吏に捕縛され、水戸郊外の長岡原で逆さ磔に処された。


変名:市川善次郎、市川弘美、市川主計
主な役職:小納戸頭、小姓頭、馬廻頭、大寄合頭、家老
剣術:-
墓所:水戸市八幡町祇園寺


岩谷 敬一郎
いわたに けいいちろう
(1832-1892)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

死に場所を得れなかった筑波勢総裁
天保3年、水戸の修験の家に生まれる。会沢正志斎門下の俊才であったが、郷士待遇の身分でありながら横柄な態度で藩内で疎んじられた。体格が良く、豪放磊落な豪傑肌であったと云われる。玉造郷校館長、潮来郷校館長を努め、尊皇攘夷活動に邁進。元治元年、藤田小四郎らと共に筑波山で挙兵した。しかし、諸生党との戦いの中、天狗党から分裂。田中愿蔵隊と合流して助川城を落とす。幕軍が助川城を攻めると、その攻撃を凌いで脱出するが、味方ともはぐれて八溝山に身を隠す。しばらく潜伏した後、江戸に潜入して旧知であった山岡鉄舟の庇護を受けるが、危なくなり甲州、東海地方を転々として維新を迎える。山岡の紹介で宮内庁に出仕する。ほどなく辞職して捕鯨会社を興すがうまくいかず、塾を開いて糊口を凌いだ。明治25年、死去。


変名:岩谷信成
主な役職:玉造郷校館長、潮来郷校館長筑波勢遊軍総轄筑波勢補翼
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:-


鵜飼 吉左衛門
うかい きちざえもん
(1798-1859)
水戸藩

戊午の密勅降下に関与した甲賀流忍者の末裔
寛政10年、水戸藩士鵜飼真教の次男として生まれ、後に叔父の鵜飼知盛の養子になった。鵜飼家は、甲賀二十一家のひとつ鵜飼駿河守の末裔であった。水戸藩の事業である「大日本史」編纂に従事。湊川に楠木正成を称えた「唖々忠臣楠公」の碑を建立している。京都留守居役を務め、寺社を巡り史料の収集に努める傍ら、尊王攘夷運動に参加する。安政5年、戊午の密勅が万里小路正房より受領されたが、持病が悪化したため、子の鵜飼幸吉に託し、水戸藩家老安島帯刀を介して藩主徳川慶篤のもとに届けられた。しかし、安政の大獄により、捕縛され江戸に送られる。安政6年、子の幸吉と共に斬首された。


変名:鵜飼菊三郎、鵜飼知信
主な役職:京都留守居役
剣術:-
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地


鵜飼 幸吉
うかい こうきち
(1728-1859)
水戸藩

戊午の密勅を江戸に届けた水戸藩士
文政11年、水戸藩士鵜飼吉左衛門の長男として生まれる。水戸藩砲術師範福地政次郎より神発流砲術を学ぶ。安政3年、京都留守居役の父の下で働き、京都留守居役助役となっている。父と共に尊王攘夷運動に参加。安政5年、戊午の密勅が下されると、病気の父に代わって密勅を届けた。しかし、安政の大獄が始まると、父と共に捕縛されて江戸に檻送。安政6年、伝馬町牢屋敷にて斬首された。


変名:鵜飼菊次郎、鵜飼知好、鵜飼知明、小瀬伝左衛門
主な役職:京都留守居役助役
剣術:神発流砲術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地



大関 和七郎
おおぜき わしちろう
(1836-1861)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
天保7年、水戸生まれ。実兄に黒澤忠三郎、甥に広岡子之次郎がいる。弘化3年に叔父大関恒右衛門増賀の養子となり家督を継いだ。安政2年に馬廻に任命され、安政5年には大番組に編入される。安政6年に戊午の密勅が降下されると、兄の黒澤と同じく過激な尊王攘夷派だったことから、返納に反対して奉勅を訴えた。このため幕府の後ろ盾があった藩保守派より圧力を受け、名を酒泉好吉と改めて江戸に潜入する。安政7年の桜田門外の変では大老井伊直弼の襲撃に参加する。井伊を討ち取ったが負傷し、熊本藩の江戸藩邸に自首。文久元年、幕府の評定において死罪となり斬首された。


変名:大関忠次郎、大関恒右衛門、大関増美、酒泉好吉
主な役職:馬廻、大番
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地


岡部 三十郎
おかべ さんじゅうろう
(1818-1861)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
文政元年、水戸藩士岡部五郎衛門の二男として生まれる。桜田門外の変では、検視見届役として参加。井伊暗殺が成されてからは大坂へ向かい薩摩挙兵を働きかけた。しかし、薩摩藩挙兵が困難な事を知って、木曽路を信州、甲州を経て江戸から水戸へ帰還し潜居した。追捕を逃れ、その後再び江戸へ出たが文久元年、吉原で捕まり、金子や自訴した5名とともに斬首された。


変名:岡部忠吉
主な役職:小普請、井伊直弼襲撃検視見届役
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市上水戸町光台寺


稲田 重蔵
いなだ じゅうぞう
(1814-1860)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
文化11年、農民稲田孫衛門の子として生まれる。農民になるのを嫌い、父親はやむなく伝手を求めて田丸稲之衛門の従者として使ってもらうこととした。 やがて田丸に推され町方同心となり、田丸の甥の金子孫二郎が西郡奉公に就任すると、郡吏として抜擢された。田丸、金子に従って重蔵の尊皇攘夷へ傾向。安政5年、戊午の密勅が水戸へ下ると、勅諚の全国への回達を主張し同士とともに小金に屯集。安政の大獄が発生し、水戸藩士を中心に大老井伊直弼襲撃計画が立てられると志願して参加。安政7年、井伊襲撃を実行。彦根藩士の刃に斃れ、襲撃側の唯一の戦死者となった。


変名:稲田正辰
主な役職:郡吏、内元取締
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市天王町神崎寺



か行


海後 磋磯之介
かいご さきのすけ
(1828-1903)
神官
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
文政11年、三島神社神官海後大和宗邦の三男として生まれる。大久保の医学館に学び、水戸城下へ出て剣術及び砲術を学び、藩校の弘道館でも学ぶ。井伊直弼襲撃計画に参加。当日は、お濠側から襲撃。指を切り落とされながらも現場を脱出。水戸藩領の小田野村にある親戚の家に隠れた。その後、越後へと逃亡生活を続ける。文久3年に自宅へ戻り、元治元年の天狗諸生の乱には変名で天狗側として参加し、関宿藩に預けられるが、ここも無事に逃れることができた。明治になり水戸藩士身分となる。茨城県庁や警視庁などに勤務し、退職後、自宅で没する。遺稿に大老襲撃の一部始終を伝える記録春雪偉談や潜居中覚書などがある。


変名:海後宗親、菊池剛蔵
主な役職:三島神社神官
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地

日下部 伊三次
くさかべ いそうじ

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黒澤 忠三郎
くろさわ ちゅうさぶろう
(1830-1862)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
天保元年生まれ。水戸藩内では過激な尊王攘夷派であり、戊午の密勅が水戸藩に降下した際には勅を幕府に渡さず奉勅するように訴えている。その後の安政の大獄で水戸藩が特に処罰されたのに憤激し、安政7年の桜田門外の変で大老井伊直弼の襲撃に参加する。井伊を討ち取った後、黒澤は老中脇坂安宅邸に自首した。身柄は熊本藩細川氏預かりとなる。富山藩前田氏預かり、三田藩九鬼氏預かりと転々とした後、三田藩邸において死去した。記録では病死とされているが、襲撃時の負傷による死の説もある。


変名:黒澤勝算、黒澤勝等
主な役職:庄机廻、馬廻
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地


鯉淵 要人
こいぶち かなめ
(1810-1860)
神官
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
文化7年、上古内村諏訪神社鯉淵数馬義重の子として生まれる。天保の初め頃、父の後を継ぎ神官となる。誠実な性格が氏子の信頼を受け近村数社の顧問となって神道の普及に努めた。その傍ら産業の振興や、若者の教育にも力を注いだ。徳川斉昭が藩主になると水戸領の神官たちは優遇され、郷士並みの待遇を受ける。彼らはやがて水戸藩政に混乱が見られると、尊攘派・斉昭派として政治的な行動も起こすようになった。要人は距離的にも近い静神社の斎藤監物に感化を受け、行動を供にした。井伊直弼襲撃に参加。当日は、武家屋敷側から襲撃。深手を受けながら現場を脱し日比谷御門を抜けるが、八代洲河岸で力尽き、織田兵部少輔邸脇にて山口辰之介とともに自刃した。


変名:鯉淵珍陳
主な役職:上古内村諏訪神社神官
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:東茨城郡城里町上古内鯉淵家墓地


小林 幸八
こばやし こうはち
(1839-1865)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

天狗党の乱に参加した幕末最初の外国人暗殺者
天保9年、水戸藩士小林某の子として生まれる。剣術に優れ、藩校弘道館の剣術師範を務める。安政6年、横浜居留地で、ロシア海軍少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフを数人の同志と共に暗殺。これが、幕末最初の外国人殺害事件となった。元治元年、筑波山挙兵に参加し西上にも同行するが、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏。幽閉中の尋問において、ロシア人殺害を自供する。慶応元年、横浜にて斬首。


変名:小林秀、小林忠雄
主な役職:弘道館剣術師範
剣術:水府流剣術
墓所:-


さ行


斎藤 監物
さいとう けんもつ
(1822-1860)
神官
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
文政5年、静神社の神官斎藤式部文静の子として生まれる。背が高く面長で力があり、意志強固の上、物覚えが良かった。藤田東湖に師事。安政5年、戊午の密勅が出されると、勅諚の全国回達を願って行動。安政の大獄が始まり、水戸藩が苦しい立場に陥ると、高松藩主に歎願を行うなどした。井伊直弼襲撃計画に賛同し、これに参加。襲撃時、斎藤は一同を率いて趣意書を提出する役であったが戦闘に参加してしまい、身に数創の深手を負う。同志の看護もむなしく熊本藩邸で深傷のため死去。


変名:斎藤一徳、斎藤文里、佐々木馬之介
主な役職:静神社神官
剣術:神道無念流剣術
墓所:那珂市古徳静神社前、東京都墨田区回向院


斎藤 佐次衛門
さいとう さじえもん
(生没年不明)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

途中離脱した筑波勢の輔翼
藤田東湖に学ぶ。安政6年、安政の大獄により蟄居処分となるが、万延元年に放免。その後、市中取締役。元治元年、田丸稲之衛門と共に筑波山挙兵に参加するが、太平山にて離脱した。後に脱藩して薩摩藩の庇護を受ける。慶応元年、西郷隆盛の依頼を受け、四国に亡命中の高杉晋作に薩長同盟設立を働きかける。維新後は鹿島郡司となり、天寿を全うした。天狗党の乱については、家族にも口をつぐんで語らなかったという。


変名:斎藤佐次右衛門、斎藤俊
主な役職:市中取締役、筑波勢輔翼、鹿島郡長
剣術:-
墓所:-


佐野 竹之介
さの たけのすけ
(1840-1860)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
天保11年、水戸藩士佐野武衛門光誠の嫡男として生まれる。代々、武を以って使えた家柄であったので、幼いころから剣道、抜刀術、砲術を学んだ。弘道館に入って学問にも励み、海後磋磯之介と親交、水戸藩尊攘派の中で行動派として中心的な動きを示す。井伊直弼襲撃計画に賛同し、それに参加。当日は、お濠側からの襲撃隊長として奮戦。深手を負いながらも現場を脱した。龍野藩へ自訴し、その晩同士とともに熊本藩へ移されるが、重傷のため没した。


変名:佐野光明、海野愼八、佐藤武兵衛
主な役職:大番組頭
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市酒門町酒門共有墓地


杉山 弥一郎
すぎやま やいちろう
(1824-1861)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
文政7年、鉄砲師杉山孫十郎の子として生まれる。鉄砲師としての技を買われ士分となる。井伊直弼襲撃計画に参加。井伊家の動静を探索し、その機会を待った。 襲撃当日は、杵築藩邸側から行列へ切り込み、負傷しながら現場を離脱。熊本藩へ自訴した。その後、村松藩へ分預され、文久元年、江戸伝馬町の獄舎で金子孫二郎ら6人の同士と斬首に処せられた。


変名:杉山当人、杉山秀邦
主な役職:−
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地、東京都墨田区回向院


須藤 敬之進
すどう けいのしん
(1842-1865)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

天狗党の主力である天勇隊の隊長
天保13年生まれ。元治元年に床机廻に選ばれるが、妻子と離縁して筑波山挙兵に参加。他藩の脱藩浪士や草莽の志士らからなる天勇隊の隊長となった。筑波勢の主力として幕府軍や諸生党と交戦。那珂湊での敗戦後に武田耕雲斎、山国兵部らが加わり西上するが、敦賀で加賀藩に降伏する。禁固に処された後、慶応4年に斬首された。


変名:須藤孝正
主な役職:床机廻、天勇隊隊長
剣術:-
墓所:敦賀市松島町武田耕雲斎等墓


住谷 寅之介
すみたに とらのすけ
(1818-1867)
水戸藩

藤田東湖亡き後の、水戸尊皇攘夷派の中心人物
文政元年、水戸藩士住谷長太夫の長男として生まれる。天保13年藩校弘道館の舎長に任じられる。天保15年、弘道館教授頭会沢正志斎が罷免されるとそれに抗議して舎長を辞任、謹慎を命じられた。弘化3年には、藩主徳川斉昭の雪冤運動に加わり処罰。安政5年、幕府の実権を握る大老井伊直弼に対し諸藩の決起を促すため、土佐藩・宇和島藩・薩摩藩へ遊説に向うが協力を得られず江戸へ戻った。安政6年、安政の大獄に伴い蟄居処分を受ける。翌年、高橋多一郎らを中心とする井伊直弼暗殺計画が藩に察知されると、関与を疑われ投獄された。文久元年、老中安藤信正暗殺を実行するが失敗する。文久3年、藩主に随従して上京し、水戸藩京都警衛指揮役に任じられる。京都では藤田東湖亡き後の水戸藩の尊王攘夷思想の中心的人物と見られ、公卿らとも交際。しかし、住谷は公武合体を容認していたことから、勤王派志士から敵視され、土佐藩士山本旗郎らによって斬殺された。


変名:住谷信順、小場源介
主な役職:-
剣術:-
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地、京都市霊山護国神社


関 鉄之介
せき てつのすけ
(1824-1862)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
文政7年、水戸藩士関新兵衛昌克の子として生まれる。弘道館で学び、水戸学の影響を受けて尊王攘夷運動に傾向。安政3年、郡奉行高橋多一郎に認められて北郡務方に抜擢され、大子郷校の建設と農兵の組織を行いながら、水戸藩改革派の拡大を進めた。安政5年、高橋の指示により大老井伊直弼に対する諸藩の決起を促すため、矢野長九郎らと共に越前藩、鳥取藩、長州藩へ遊説に赴く。しかし、安政の大獄による尊王攘夷派志士に対する弾圧が行われはじめていたため、十分な成果を挙げられなかった。安政の大獄が更に進行すると、高橋多一郎、金子孫二郎らを中心とした直弼の暗殺計画に参加する。安政7年、桜田門外の変で実行隊長として襲撃を指揮し、直弼を暗殺した。その後、薩摩藩などを頼って近畿、四国方面の各地を逃走。文久元年に、水戸藩領に入って領内を転々と潜伏した後、越後の湯沢温泉で捕らえられた。文久2年、日本橋小伝馬町の牢において斬首された。


変名:三好貫太郎
主な役職:北郡奉行所与力、北郡務方、井伊直弼襲撃実行隊長
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地、東京都墨田区回向院

芹沢 鴨
せりざわ かも
新選組人物録へ



た行


竹内 百太郎
たけうち ももたろう
(1831-1865)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

藤田小太郎と共に挙兵した筑波勢三総裁のひとり
天保2年、水戸郷士竹内延猷の子として生まれる。竹内家は郷士待遇ながら、代々安食村の大地主であり、酒と醤油の醸造の他、丸薬などを売って財を成していた。江戸の千葉道場で剣を学び、水戸の藤田東湖の直弟子として近習。尊皇攘夷思想の影響を受けた。元治元年、藤田小四郎や岩谷敬一郎と共に筑波山で挙兵。軍資金の不足を負担するとともに、三総裁の一端を担った。西上にも輔翼として参加し、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏。天狗党幹部らと共に斬首された。


変名:竹内延秀、竹内一実、竹中万次郎
主な役職:筑波勢遊軍総轄、天狗党輔翼
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:かすみがうら市柏崎竹内家墓所、敦賀市松島町武田耕雲斎等墓


武田 耕雲斎
たけだ こううんさい
(1803-1865)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

天狗党を率いて反乱を起こした水戸藩の重臣
享和3年、水戸藩士跡部正続の子として生まれる。家督を継ぐと同時に、祖先の跡部勝資が甲陽軍鑑において奸臣とされていた為、この家名を嫌ったことから藩主斉昭の許しを得て武田姓へ改姓。徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから、天保11年には参政に任じられ、水戸藩の藩政に参与して、斉昭の尊皇攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えた。しかし万延元年、斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎も藩政から遠ざけられた。慶応元年、藤田小四郎が天狗党を率いて挙兵。耕雲斎は小四郎に首領として迎えられる。天狗党は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることを目的としていた。そして、800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏。簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬首された。


変名:跡部彦九郎、武田彦九郎、武田如雲、武田正生
主な役職:水戸藩執政、天狗党総大将
剣術:-
墓所:水戸市見川妙雲寺、敦賀市松島町武田耕雲斎等墓



田中 愿蔵
たなか げんぞう
(1844-1864)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

略奪放火で天狗党の名を地に落とした天狗党幹部
天保15年久慈郡東連地村の農家に生まれる。藩医の養子となり、藩校弘道館、江戸の昌平坂学問所で学ぶ。水戸藩が設立した郷校の時雍館で館長を務め、領民への教育活動を行う。元治元年、藤田小四郎が天狗党を率いて、筑波山で挙兵するとこれに加わった。 軍資金調達のため、別働隊を率いて栃木宿に対し軍資金の差し出しを要求。栃木宿側がこれに応じないと、金品を強奪したうえに放火する。宿場内は237戸が焼失する大惨事となる。また真鍋宿でも略奪放火を行い、77戸を焼失させた。幕府が天狗党の追討軍を差し向けると、那珂湊周辺で交戦するが、天狗党は敗走。助川城で籠城したが、幕府軍の攻撃を受けると城を捨てて敗走する。約200名の兵と共に、赤沢銅山へ食料の援助を要請したが拒否されたため、鉱山の生産設備を破壊した上に放火。さらに敗走を続け、八溝山に篭って再起を図る。しかし、食料弾薬が尽きたため、隊を解散させて個々に逃亡。愿蔵は真名畑村に逃れたが、捕縛され斬首された。


変名:-
主な役職:時雍館館長、筑波勢田中隊隊長
剣術:-
墓所:東白川郡塙町安楽寺


田丸 稲之衛門
たまる いなのえもん
(1805-1865)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

筑波山で挙兵した天狗党の盟主
文化2年、水戸藩士山国共綿の次男として生まれる。外祖父である田丸直諒の養子となり、天保6年、馬廻組となった。縄奉行、進物番、使番、書院番組頭、目付と歴任し、順調に出世するが、兄である山国兵部の影響もあり、尊皇攘夷派に属するようになる。文久3年には町奉行となるが、天狗党が筑波山に挙兵すると、盟主の一人として招かれた。これに、反対勢力である諸生党が討伐の兵を挙げると、天狗党はこれに応戦。戦乱は藩内全域に及んだが、幕府軍が諸生党と連合して天狗党鎮圧に乗り出すと、京都への上洛を目指して転戦する。下野国、陸奥国へと移動し、各藩と戦火を交える。大遠征の中で疲弊し、越前藩や加賀藩らの大藩に対する武力も残っていない事、加賀藩が天狗党に同情的であった事もあり、加賀藩に降伏する。慶應元年、幕命により賊将として斬刑となった。


変名:山国丑次郎、田丸安之允、田丸直允
主な役職:縄奉行、進物番、使番、書院番組頭、目付、筑波勢総帥
剣術:-
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地、敦賀市松島町武田耕雲斎等墓


徳川 斉昭
とくがわ なりあき
(1800-1860)
水戸藩

井伊と対立し排除された水戸の賢候
寛政12年、水戸藩第7代藩主徳川治紀の三男として水戸徳川家江戸小石川藩邸で生まれる。文政12年、第9代水戸藩主となる。改革派の藤田東湖・戸田蓬軒らを採用し、天保の藩政改革を実施。嘉永6年、ペリー来航に際して、老中首座阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張する。安政4年には、開国を推進する井伊直弼と対立。さらに将軍継嗣問題で、徳川慶福を擁して南紀派を形成する井伊直弼に対して、一橋派を形成して南紀派と争った。しかし、この政争に敗れ、安政5年に井伊直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印。さらに徳川慶福が第14代将軍となる。このため、将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、一橋派と江戸城に無断登城して井伊直弼を詰問したため、謹慎を命じられて幕府中枢から排除された。翌安政6年には、孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことが井伊直弼の逆鱗に触れ、水戸での永蟄居を命じられることになり、事実上政治生命を絶たれる形となった。万延元年、蟄居処分が解けぬまま心筋梗塞により水戸で急逝した。


変名:徳川虎三郎、徳川敬三郎、徳川子信、徳川景山、徳川潜龍閣
主な役職:9代水戸藩主、海防参与、軍制改革参与
剣術:-
墓所:常陸太田市瑞竜町瑞竜山

徳川 慶篤
とくがわ よしあつ
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戸田 忠太夫
とだ ちゅうだゆう
(1804-1855)
水戸藩

東湖と共に斉昭を支えた水戸の両田の一人
文化元年、水戸藩士戸田三衛門忠之の嫡男として生まれる。文政12年の水戸藩主継嗣問題に当たっては斉昭派に与し、将軍家より養子を擁立しようとする一派に対抗し、中下士層を率いて聡明と聞こえる第9代水戸藩主徳川治紀の3男、敬三郎を擁立する。これにより敬三郎が跡目となり徳川斉昭となる。斉昭が水戸藩主となると藤田東湖とともに斉昭を支え、世に水戸の両田といわれ、尊王の志と学識を備えた優れた指導者として知られるようになる。水戸藩における天保の改革として領内総検地、海防準備、学校創設、寺社改革において重きをなし、弘化元年に斉昭が幕疑を受け致仕すると、藤田東湖同様に免職、蟄居謹慎を命ぜられる。嘉永6年、斉昭が幕府により海防参与を引き受けると、藤田東湖とともに幕府海岸防禦御用掛、江戸詰となり執政に準ずる身分となった。海防掛として老中以下幕臣の岩瀬忠震らと異人来襲の危機につき協議に参画するなど活躍する。しかし、安政2年に起きた安政の大地震によって、水戸藩邸で卒去する。


変名:戸田亀之介、戸田、戸田蓬軒、戸田清洲、戸田忠敞、戸田蓬軒、戸田忠敞
主な役職:水戸藩家老、海岸防禦御用掛
剣術:-
墓所:水戸市酒門町酒門共有墓地


な行

新見 錦
にいみ にしき
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野口 健司
のぐち けんじ
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は行


蓮田 市五郎
はすだ いちごろう
(1833-1861)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
天保4年、水戸藩士蓮田宗通の嫡男として生まれる。安政2年、水戸藩寺社方手代となる。職務上斎藤監物を知り、その思想に共鳴。井伊直弼襲撃が計画されると、それに参加した。決行当日は、杵築藩邸側から襲撃。
負傷しながら現場を脱し、龍野藩へ自訴。その晩、細熊本藩へ預け替えられ、幕府の取り調べが行われた。市五郎は絵を描く才能があり細川邸預中に事変の詳細を「桜田事変図」として描いた。文久元年、江戸伝馬町の獄舎で同志6人とともに斬首された。墓所は水戸市松本町の常磐共有墓地。


変名:蓮田正美、蓮田仙之介、蓮田一五郎
主な役職:水戸藩寺社方手代
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地

平間 重助
ひらま じゅうすけ

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平山 五郎
ひらやま ごろう
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広岡 子之次郎
ひろおか ねのじろう
(1840-1860)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
天保11年、水戸藩士林吉次郎の子として生まれる。実兄は天狗党の領袖として活躍する林忠左衛門。嘉永3年、広岡則孝の養子となる。安政5年の戊午の密勅降下後は、その全国への回達を主張。井伊直弼を討つ計画が具体化し、子之次郎もこれに加わることを決意。しかし兄や叔父たちは若い子之次郎が生還を期し難い挙に参加することに反対し、思いとどまるよう説得するが、一国の大事を処するには年齢は問題ではないと言ってきかなかった。決行当日はお濠側から襲撃。激しく切り合いかなりの重傷を負って現場を脱したが、姫路藩邸前で力尽き自刃した。


変名:広岡政則、広岡則順
主な役職:小普譜
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地、東京都墨田区回向院


広木 松之介
ひろき まつのすけ
(1838-1862)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
天保9年、水戸藩士広木善蔵の子として生まれる。安政の初めに藩に仕えて評定所物書雇となり、のち寺社方物書雇にまわった。身分は低いが、職務に熱心なほか忠義の志厚く、武芸にも秀でていた。 安政5年、前藩主斉昭が処罰され、この宥免のため大関和七郎に従って上府し行動。金子孫二郎から井伊直弼襲撃の計画を知らされこれに参加。決行当日は杵築藩邸側から井伊を襲撃。激しく井伊家の家中と切り合うが、大きな負傷もせず現場を脱した。その後、能登の国の本住寺に潜伏。のちに鎌倉の上行寺に移った。文久元年、自訴した仲間の処刑が行われたことを知り、文久2年、上行寺の墓地で切腹。


変名:広木有吉
主な役職:水戸藩評定所物書雇、寺社方物書雇
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市見川妙雲寺


福地 政次郎
ふくじ せいじろう
(1810-1865)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

大発勢に参加した神発流砲術師範
文化7年、水戸藩士佐藤重遠の次男に生まれ、同藩士福地広貫の養子となる。小姓頭から鉄砲頭、軍用掛と昇進。砲術に優れ藩の神発流砲術師範となっている。元治元年、宍戸藩主松平頼徳と共に大発勢として内乱鎮静に向かうが、諸生党と戦い敗北。頼徳に随行して投降する。佐倉藩に預けられ、河藩へ移された。元治2年、斬首。


変名:福地広延
主な役職:鉄砲頭、軍用掛、神発流砲術師範
剣術:神発流砲術
墓所:-



藤田 小四郎
ふじた こしろう
(1842-1865)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

東湖の息子にして水戸攘夷派の首領格
天保13年、藤田東湖の四男として生まれる。父東湖の影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げて活動するようになる。安政2年、安政の大地震により父を失う。この頃から弘道館館長の原市之進に師事していた。文久3年、藩主徳川慶篤の上洛に随従し、桂小五郎、久坂玄瑞をはじめ京都に集う志士と交流。水戸藩過激派の首領格として台頭する。元治元年、朝廷より攘夷の勅が出されながら無策を続ける幕府に憤り、同志と共に筑波山にて挙兵。諸生党との戦いを経て西上するが、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏。元治2年、敦賀の来迎寺にて斬首。処刑後、小四郎の首は武田耕雲斎らの首と共に水戸に送られ、罪人として晒された。


変名:藤田信、藤田子立、藤田東海、小野贇男
主な役職:筑波勢総裁、天狗党輔翼
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地、敦賀市松島町武田耕雲斎等墓


藤田 東湖
ふじた とうこ
(1806-1855)
水戸藩

斉昭を補佐した水戸学藤田派の後継
文化3年、水戸城下の藤田家屋敷に生まれる。水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。また、当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。文政12年の水戸藩主継嗣問題に当たっては斉昭派に与し、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、天保11年には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得るに至った。嘉永6年にペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元年には側用人に復帰する。安政2年に発生した安政の大地震の際に圧死した。


変名:藤田虎之助、藤田虎之介、藤田武次郎、藤田誠之進、藤田梅庵
主な役職:水戸藩側用人、海岸防禦御用掛
剣術:-
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地


ま行


増子 金八
ましこ きんぱち
(1823-1881)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
文政6年、水戸藩士増子甚八郎の子として生まれる。安政期の勅諚降下や安政の大獄後の混乱に、常に尊攘激派に属して行動。井伊直弼襲撃計画に関わったのは万延元年。高橋多一郎らの意をうけて石塚から江戸に上る。商人体をして、杉山弥一郎とともに日本橋井筒屋に投宿。後から次々に江戸に集まる同志達のため、潜伏すべき宿を用意したり、夜毎に桜花を描いた提灯を持って目印とし浅草観音にお百度詣りと見せかけたりするなど、苦労して厳しい監視下での連絡役を果たした。決行当日は、杵築藩邸側から襲撃した。襲撃後は腕や肩に傷を負ったが浅手であったため、現場を脱し西国を目指すが、警戒が厳重で叶わず水戸に帰郷して潜伏。晩年は同志の冥福を祈りながら、読書と狩猟の余生を過ごした。明治14年に病没した。


変名:増子誠三郎、増子正木、大畠誠三郎
主な役職:小普請
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:東茨城郡城里町大字石塚


松平 頼徳
まつだいら よりのり
(1831-1864)
宍戸藩
不本意に幕軍と戦い切腹させられた不運の宍戸藩主
天保2年、第8代宍戸藩主松平頼位の長男として生まれる。弘化3年、父の隠居により第9代宍戸藩主となり、父と共に本家水戸藩主徳川慶篤の補佐を務める。元治元年、水戸城を掌握した諸生党に対し、水戸藩主の名代として水戸藩執政榊原新左衛門と共に水戸の内乱鎮静に出発。これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民も加入した。しかし、諸生党は頼徳らの水戸城入城を拒否。両勢力は水戸城下で対峙するが、やむなく退いて水戸近郊の那珂湊に布陣する。筑波勢もこれに加わり、諸生党と全面衝突となった。しかし、筑波勢の討伐に出陣していた幕府追討軍が、諸生党側について参戦。筑波勢と合流したことにより同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまう。幕府と戦うことは本意ではないと、頼徳は幕府追討軍総括の田沼意尊にその経緯の実情を訴え嘆願しようとしたが、その機会は与えられず、諸生党に引き渡され、幕命により切腹させられた。宍戸藩は改易され、江戸藩邸も幕府没収となった。
変名:松平豊太郎
主な役職:第9代宍戸藩主
剣術:-
墓所:常陸太田市瑞竜町瑞竜山



森 五六郎
もり ごろくろう
(1838-1861)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
天保9年、水戸藩士森与左衛門直元の五男として生まれる。長兄の森三四郎は、天狗諸生の抗争の際に天狗として古河藩に幽閉され斬死された。井伊直弼襲撃が計画されると、その実行部隊に参加。剣術の腕と気性の激しさを買われ、先頭攪乱役を指名される。訴人のふりをして井伊の行列の先頭に駆け寄り、刀を抜いて斬りかかって負傷しながらも本懐を遂げ、熊本藩へ自訴した。その後、豊後臼杵藩、片桐家へと預け替えとなった。この時、臼杵藩士が森から聞く事件関係の話を筆記し、それが事件を知る重要な記録「森五六郎物語」として伝わっている。文久元年、同志とともに斬首された。


変名:森直長、森大之進
主な役職:大番
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地、東京都墨田区回向院


森山 繁之介
もりやま しげのすけ
(1835-1861)
水戸藩
(桜田十八士)

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
天保6年生まれ。身分は低かったが両親が教育に力を入れ、学問も武芸も早く上達した。二十歳ごろ藩に仕えて矢倉方となる。その頃矢倉奉行となった高橋多一郎に認められ、水戸藩尊攘派の一員として行動する。井伊直弼襲撃が計画されると、その実行部隊に参加。当日はお濠側から襲撃。激しい切り合いの中で彼は無傷で現場から脱し、熊本藩邸へ自訴した。その後、一ノ関藩、足利藩と移された。幕府の尋問を何度も受けたが、同志に誘われて挙に加わったに過ぎず、誰が計画し指導したかはわからないと言い張った。文久元年、同志とともに斬首された。


変名:森山政徳
主な役職:矢倉奉行手代
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町祇園寺、東京都墨田区回向院



や行


山口 辰之介
やまぐち たつのすけ
(1832-1860)
水戸藩

見事に井伊を討ち取った桜田十八士の一人
天保3年、水戸藩士山口頼母徳正の四男として生まれる。幼少より武芸、歌道にすぐれた。安政4年、学問出精により賞され、藩に出仕し累進して大番となり禄高二百石を受けた。井伊直弼襲撃が計画されると、その実行部隊に参加。杵築藩邸側から果敢に井伊の行列へ切りこみ全身に数創を帯び重傷を負いながら現場を脱する。鯉淵要人と連れ添って歩き、織田兵部少輔屋敷の塀で膝をつき、鯉淵に介錯を頼み自刃した。


変名:山口正
主な役職:大番
剣術:北辰一刀流剣術
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地、東京都墨田区回向院


山国 兵部
やまぐに ひょうぶ
(1793-1865)
水戸藩
(天狗党の乱参加者)

死してもなお戦意衰えぬ天狗党の戦術家
寛政5年、水戸藩士山国共綿の長男として生まれる。幼少より武芸、軍学を習得し、文政6年に小納戸役軍用掛となる。藩主徳川斉昭の下、軍制改革に着手した。安政6年、安政の大獄に伴い蟄居処分を受ける。元治元年、
実弟田丸稲之衛門、藤田小四郎らの筑波山挙兵を、思いとどまらせる説得に失敗して謹慎処分を受ける。その後、水戸城が市川三左衛門ら諸生党に占拠されたため、水戸藩の支藩である宍戸藩主松平頼徳が水戸藩主徳川慶篤の名代となり「大発勢」として内乱鎮静に出発。諸生党の専横に反対していた兵部や武田耕雲斎ら激派も合流して諸生党と交戦する。しかし筑波勢を追討する幕府軍が、諸生党側として参戦。筑波勢は、大発勢に加勢する。筑波勢の加勢を受けた大発勢は、幕府による討伐の対象とされてしまい、弁明の為に江戸に赴いた松平頼徳は切腹させられる。この事態に兵部や耕雲斎ら激派は、筑波勢と合流し西上して京都の一橋慶喜を通じて、尊皇攘夷の志を訴えることを決め、組織を編成して進軍した。兵部は軍学の知識を活かして、戦術面で天狗党に大きく貢献し、下仁田や和田峠の戦いにおいて天狗党を勝利させる。天狗党幹部が投降を決する際も、主戦を主張したが、軍議に従って投降した。天狗党幹部と共に、来迎寺境内にて処刑される。


変名:山国喜八郎、山国共昌、止弋堂
主な役職:小納戸役軍用掛、目付、天狗党大軍師
剣術:-
墓所:水戸市松本町常磐共有墓地


ら行


わ行


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