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福岡藩人物録

福岡藩
       47万3000石
 黒田家 福岡城
支藩:
秋月藩    5万石 黒田家 秋月陣屋

筑前国のほぼ全域を領有した雄藩であり、黒田長政を祖とする黒田家が支配する。第11代藩主黒田斉溥は、西洋技術を積極的に取り入れ、精錬所や反射炉の建設、蒸気機関の製作、医術学校の建設や種痘の実施、炭鉱の開発を推進した。藩内では尊皇攘夷思想が盛んで、平野国臣、月形洗蔵などの諸藩に知られた尊攘志士を輩出している。しかし、乙丑の獄により多くの人材を失ったため、戊辰戦争以降の人材に事欠き、新政府から疎んじられることになる。


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あ行


か行


加藤 司書
かとう ししょ
(1830-1865)
福岡藩

第一次長州征伐軍を解兵させた福岡の勤皇家老
文政13年、福岡藩重臣加藤家の長男として生まれる。姉の婿徳蔵が実家に復籍したため、11歳で加藤家を継ぎ、中老に就任。嘉永6年、露艦隊が長崎に来航した際には、藩兵500人を率いて長崎を警護し、折衝役の川路聖謨を助けた。元治元年、幕府による第一次長州征伐が起こると、薩摩藩の西郷隆盛らと共に長州征伐の中止を画策。その後、三条実美ら五卿が太宰府に移動するとその保護に努める。薩長の和解に周旋し、高杉晋作が藩内に亡命した折には薩摩との和解を提案している。慶応元年、幕府からの圧力で藩内の佐幕派が巻き返し、「乙丑の獄」が起きて、罷免、切腹を命じられた。「乙丑の獄」では、他にも多くの勤皇派志士が弾圧されている。


変名:加藤三太郎、加藤又左衛、加藤徳成
主な役職:福岡藩家老
剣術:-
墓所:博多区御供所町節信院


黒田 長溥
くろだ ながひろ
(1811-1887)
福岡藩

開明的であったが佐幕派藩主として藩内尊攘派を弾圧した福岡藩主
文化8年、薩摩藩主島津重豪の十三男として生まれる。文政5年、第10代福岡藩主黒田斉清の養嗣子となる。天保5年、養父の隠居により、家督を相続。近代化路線を推し進め、精練所や反射炉を建設する。また、藩士を積極的に長崎に派遣し、西洋技術を習得させた。オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組み、医術学校の創設や種痘の実施、金鉱・炭鉱開発を推進した。嘉永3年、実家の薩摩藩島津家の相続争い(お由羅騒動)に際し、事態の収拾に求め、島津斉彬の藩主相続に貢献した。嘉永5年、幕府に対して海防に関する建白書を提出するが、黙殺されている。その主張が採用されることはなかったが、斉溥が処分を受けることもなかった。積極的な開国論者であり、慶応元年、藩内における過激な勤王志士を弾圧している。明治2年に隠居した。明治18年、旧福岡藩の藤雲館を、旧福岡藩校修猷館を福岡県立修猷館として再興。明治20年に死去した。


変名:黒田桃次郎、黒田斉溥、黒田官兵衛
主な役職:第11代藩主
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


さ行



た行




月形 洗蔵
つきかた せんぞう
(1828-1865)
福岡藩

薩長同盟の起草文を考案し厚斡旋に尽力した尊皇派の主魁
文政11年、福岡藩士月形深蔵の長男として生まれる。万延元年、藩主黒田長溥に尊王の立場から参勤交代の非を述べた建白書を提出、さらに8藩の汚職を批判する建言を行った。このことから捕縛され、翌年に家禄没収の上、御笠郡古賀村に幽閉される。元治元年に罪を許され、薩長同盟の起草文を作成。薩長2藩の周旋に尽力した。また、高杉晋作が福岡に亡命して野村望東尼の平尾山荘に潜伏すると、同士と共にこれを保護した。慶応元年、三条実美以下5卿が太宰府に移る際には、下関まで迎えに行っている。慶応元年、長溥の方針変更に伴い発生した乙丑の獄により、捕縛され斬首された。


変名:月形詳、月形伯安、月形駒之助、月形安之進
主な役職:-
剣術:-
墓所:福岡市天神大涼山少林寺



な行


中村 円太
なかむら えんた
(1835-1865)
福岡藩

高杉晋作に九州連合策を進言した福岡尊攘志士の重鎮
天保6年、福岡藩士中村某の次男として生まれる。兄に中村用六、弟に恒次郎がいる。安政3年、藩校修猷館の訓導に任命される。安政6年に脱藩して、尊皇攘夷運動を展開し京都で活動する。後に帰藩するが、元治元年に再び脱藩。長州に集結した脱藩浪士らと共に、忠勇隊参謀として天王山に布陣する。諸藩に嘆願書を提出する。長州藩世子毛利定広や五卿の京都進発を促すために使者として長州に赴くが、その間に禁門の変が勃発する。居場所を失って長州に帰還したあとは、九州連合策を高杉晋作に提案。俗論派に追われて窮地に立たされていた高杉は、この提案に乗って福岡に渡る。しかし、状況的に九州連合は不可能と判断した高杉は、自藩のみで巻き返しを決意して功山寺で決起した。五卿の太宰府入りには、月形洗蔵と共にこれ尽力。元治2年、突如として下関の芸妓3人を連れて、太宰府天満宮に参拝する。脱藩中のこの無謀行為は、藩内尊皇攘夷派にとって危険行為であり、同志らは即刻退去を要請するがこれを拒否したために報光寺に拉致。詰腹を切らされた。


変名:中村無二、野唯人、東州、李不言斎
主な役職:修猷館訓導、忠勇隊参謀
剣術:-
墓所:福岡市中央区正光寺


は行


平野 国臣
ひらの くにおみ
(1828-1864)
福岡藩
尊攘英断録を記した生野の変の首謀者
文政11年、福岡藩士平野吉郎右衛門の二男として生まれ、小金丸彦六の養子となる。漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義に傾倒した。安政2年、有職故実家坂田諸遠の門人となる。尚古主義の影響で烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くようになり、養子先の小金丸家はその行為が迷惑として離縁させられる。安政5年、上京して尊皇攘夷運動に参加。安政5年、水戸藩士や薩摩藩士ら井伊直弼暗殺を計画。安政6年、桜田門外の変が起こると、福岡藩は変に関与した国臣の捕縛を命じ、国臣は捕縛を逃れるために脱藩。潜伏して、倒幕をうたった「尊攘英断録」を著わして薩摩藩に提出する。文久2年、一時福岡藩捕縛されるが、翌年釈放され、学習院出仕に任じられる。天誅組の変、八月十八日の政変を経て、攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、生野で挙兵して代官所を襲う。しかし、幕府の対応は早く、周辺諸藩の兵か出動し鎮圧される。豊岡藩兵に捕縛され、六角獄舎につながれた。元治元年、禁門の変を端にして発生した火災で獄舎に火が及び、囚人の脱走を恐れた役人が囚人の処刑を決断。他の30名以上の囚人とともに斬首された。
変名: 平野次郎、平野巳之吉、平野種言、平野種徳
主な役職:-
剣術:神道夢想流杖術
墓所:京都市上京区竹林寺、京都霊山護国神社



ま行



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ら行


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