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幕臣・幕政参加者人物録

幕臣・幕政参加者
三百年余続いた徳川幕府は、ベリーの来航により少しづつ崩壊に向かう。しかし、その時代の流れに抗い、徳川の治世を守ろうとする者達もいた。ある者は忠誠心から、ある者は信念から、またある者は功名心から幕府とその威光に反する者と戦った。

※ここでは、幕臣、幕政参加者を紹介します。



※徳川家はこちらから。
※会津藩はこちらから。   ※新撰組隊士はこちらから。
※奥羽越諸藩はこちらから。  ※佐幕派諸藩士はこちらから。
あ行


阿部 正弘
あべ まさひろ
(1819-1857)
福山藩

安政の改革に取り組んだ幕末の老中首座
文政2年、第5代福山藩主阿部正精の5男として生まれる。文政9年、正精が死去して兄の正寧が第6代福山藩主となるが、正寧は病弱だったため天保7年に、家督を譲られ第7代福山藩主となった。天保14年に、25歳で老中に就任。弘化2年には老中首座であった水野忠邦の後任として老中首座となる。海岸防禦御用掛を設置して外交や国防問題を対策。弘化3年に米国東インド艦隊ビドルが、浦賀に来航して通商を求めたが、鎖国を理由に拒絶。7年後の嘉永6年、米国東インド艦隊ペリーが、米国大統領の親書を携えて浦賀に来航して通商を求め、翌年のペリー再来により、日米和親条約を締結させる。安政2年、堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲る。その後、海防の強化、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所等を創設し、安政の改革に取り組んだ。安政4年、老中在任のまま江戸で急死。


変名:阿部四郎五郎、阿部主計頭、阿部正一、阿部叔道、阿部剛蔵、阿部祐軒、阿部学聚軒
主な役職:第7代福山藩主、寺社奉行、老中首座
剣術:-
墓所:東京都台東区谷中霊園


荒井 郁之助
あらい いくのすけ
(1836-1909)
徳川幕府

中央気象台長となった蝦夷共和国海軍奉行
天保7年、御家人荒井清兵衛の長男として生まれる。航海術、測量術および数学に通じ、文久2年には軍艦操練所頭取に就任。元治元年に講武所頭取を命じられたため海軍職を一時離れ、慶応元年には歩兵差図役頭取となり、横浜で大鳥圭介と共にフランス式軍事伝習を受け、慶応3年に歩兵頭並に進級した。慶応4年に軍艦頭を命じられて海軍職に復帰、海軍副総裁榎本武揚らと共に新政府軍支配下に置かれた江戸を脱出する。箱館政権下では海軍奉行となり、宮古湾海戦および箱館湾海戦に参加。降伏後、投獄を経て榎本らと共に開拓使の役人として新政府に出仕し、明治9年、開拓使仮学校、女学校校長を勤める。気象学や翻訳に励み、後に新潟県の永明寺山において皆既日食観測を行った際に日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功している。明治23年、初代中央気象台長に就任。明治42年、糖尿病により死去。


変名:荒井幾之助、荒井顕徳、荒井顕理
主な役職:軍艦操練所頭取、初代中央気象台長
剣術:直心影流剣術、心形刀流剣術
墓所:東京都渋谷区祥雲寺


井伊 直弼
いい なおすけ
(1815-1860)
彦根藩

大老として強権を振るった井伊の赤鬼
文化12年、第11代藩主井伊直中の十四男として彦根城の二の丸で生まれる。弘化3年、第14代藩主井伊直亮の世子井伊直元が死去したため、彦根藩の後継者に決定。嘉永3年、直亮の死去を受け第15代彦根藩主となった。安政5年、直弼は幕府大老に就任。孝明天皇の勅許を得ぬまま、日米修好通商条約が調印する。13代将軍徳川家定の継嗣問題では徳川慶福を後継に決める。慶福は名を徳川家茂と改めて、征夷大将軍の宣下を受ける。、安政5年、これらの政策に反対する
公家や大名、志士など100名を弾圧(安政の大獄)。安政7年、桜田門外で水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名ら計18名の襲撃を受けて暗殺される。


変名:井伊鉄之介、井伊鉄三郎、井伊直輔、井伊埋木舎、井伊緑舎、井伊宗観、井伊无根水
主な役職:第15代彦根藩主、大老
剣術:-
墓所:東京都世田谷区豪徳寺


板倉 勝静
いたくら かつきよ
(1823-1889)
松山藩

旧幕軍と共に新政府軍と戦った老中首座
文政6年、白河藩主松平定永の八男として生まれる。松山藩第6代藩主板倉勝職の婿養子となり、嘉永2年に家督を継ぐ。陽明学者山田方谷を用いて藩政改革を成功させ、その評価を持って寺社奉行を務めるが、安政の大獄でに反対して罷免される。桜田門外ノ変後の文久元年、寺社奉行に復帰。翌年には老中に昇格し、混乱する政局の安定化に努めた。第15代将軍徳川慶喜から厚い信任を受け、老中首座兼会計総裁に選任。大政奉還の実現にも尽力した。戊辰戦争では、老中であった小笠原長行と共に旧幕府軍に参加し、五稜郭まで戦う。既に国許が恭順したことを知って降伏。晩年は上野東照宮の祀官となり、明治22年に死去した。


変名:松平寧八郎、松平万之進、板倉松叟
主な役職:第7代松山藩主、老中首座、会計総裁、上野東照宮祀官
剣術:-
墓所:東京都文京区吉祥寺


稲葉 正邦
いなば まさくに
(1834-1898)
淀藩

幕府に忠誠を尽くすが、自藩の勝手な恭順に泣いた老中
天保5年、二本松藩主丹羽長富の七男として生まれ、淀藩主稲葉正誼の養子となる。淀藩は、城代家老田辺家が執政を取り仕切るならわしで、正邦の代は田辺権大夫が藩政を差配した。田辺と正邦とは意見を違えることが多く、急進、改革を唱える正邦に対して田辺は穏健派であった。淀藩は西国に睨みを利かせる畿内随一の藩であり、会津藩、桑名藩と薩摩藩が同盟を結んだ頃から京都所司代となり、京都の政務を一任された。その後、老中、政事総裁として江戸で活動する。薩摩藩による江戸騒擾工作に対しては、薩摩藩邸の焼き討ちを庄内藩に命じた。鳥羽伏見の戦いには、淀藩兵を幕府軍として出兵。しかし、藩首脳部と新政府との密約により正邦の判断なしで新政府に恭順。その責任を取って老中職を辞任し淀藩へ戻った。版籍奉還により淀藩知事となり、廃藩置県によりその座を退いた。以後は平田鐵胤に入門して神道に傾倒、三島神社宮司や大教正などを歴任し、明治初期の神道の発展、整備に寄与した。明治8年、神道事務局を設立し、管長に就任。明治31年、死去。


変名:稲葉長之助、稲葉東閣
主な役職:第12代淀藩主、老中、京都所司代政事総裁、神道本局管長
剣術:-
墓所:東京都港区青山霊園


伊庭 八郎
いば はちろう
(1844-1869)
徳川幕府

戊辰戦争を駆け抜けた隻腕の剣士
天保15年、伊庭軍兵衛秀業の長男として江戸に生まれる。天性の才能から頭角を現す。元治元年、幕府に大御番衆として登用され奥詰となる。慶応2年に奥詰が改編され遊撃隊となり、遊撃隊の一員となる。慶応3年、遊撃隊に上洛の命令が下り伏見に布陣。翌慶応4年、鳥羽伏見の戦いが勃発するが、新政府軍に敗れて江戸に敗退する。江戸帰還後、請西藩主林忠崇と同盟を結び、各地を転戦。途中で遊撃隊に加盟する者が増えた為、隊を再編成し第二軍隊長となる。上野戦争を起こした彰義隊に呼応し、箱根の関所に駐在する小田原藩兵と戦い、三枚橋で小田原藩士高橋藤五郎に左手首を斬られる。八郎は怪我の治療を受けた後に榎本艦隊に投じ蝦夷地へ向けて出帆するが、銚子沖で乗船「美賀保丸」が座礁。救出された八郎は、友人らの協力を得て横浜からイギリス艦で箱館へ向かう。箱館に到着後、旧幕軍役職選挙で八郎は歩兵頭並、遊撃隊隊長となる。隻腕で有りながらも幕軍を率いて徹底抗戦を続けるが、木古内の戦いで重傷を負い、箱館病院で治療を受けるが既に為す術も無く、モルヒネを飲み干し自決した。


変名:伊庭秀穎
主な役職:歩兵頭並、遊撃隊隊長
剣術:心形刀流剣術
墓所:東京都中野区貞源寺


今井 信郎
いまい のぶお
(1841-1918)
幕臣

龍馬を斬ったとされる京都見廻組の剣客
天保12年、幕臣今井守胤の嫡男として生まれる。安政5年、榊原鍵吉の門下に入り、20歳で免許皆伝。片手打ちという独自の剣法を編み出すが、試合にて相手を死亡させてしまった為、師より禁じ手とされた。文久3年、柔術の指南を受けた神奈川奉行所取締役窪田鎮章の配下となり、横浜で勤務。慶応3年、京都見廻組与力頭を拝命。御所や二条城周辺反幕府勢力を取り締まった。同年11月15日、近江屋で佐々木只三郎らと共に、坂本龍馬と中岡慎太郎を殺害したとされる。戊辰戦争では、衝鋒隊の頭並として各地を転戦。五稜郭で降服した。龍馬暗殺の実行犯として禁固刑となるが、明治5年に特赦により釈放。以降は、静岡県榛原郡初倉村で村長を務め、横浜の教会でキリスト教の教義に感銘を受け改宗する。大正7年に死去。


変名:京都見廻組与力頭
主な役職:京都見廻組与力頭、衝鋒隊頭並、初倉村村長
剣術:新陰流剣術
墓所:島田市種月院



榎本 武揚
えのもと たけあき
(1836-1908)
徳川幕府

旧幕臣を率いて新政府軍と戦った蝦夷共和国総裁
天保7年、幕臣榎本円兵衛の子として生まれる。幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学を、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、19歳で箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加した。安政3年には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学、航海術・舎密学などを学ぶ。文久2年から慶応3年までオランダに留学。普墺戦争を観戦武官として経験、国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国。軍艦頭並を経て大政奉還後の慶応4年に海軍副総裁に任ぜられ、実質的に幕府海軍のトップとなった。このとき総裁であった矢田堀景蔵は、新政府側への恭順を示していた徳川慶喜の意向を受けて軽挙を慎んだが、新政府への徹底抗戦を主張する榎本派が幕府海軍を抑えた。戊辰戦争が始まると開陽他8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出。新選組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容し蝦夷地に逃走。五稜郭に拠り、「蝦夷共和国」を樹立。選挙の実施により総裁となった。函館戦争をへて降伏後、江戸辰の口の牢に投獄された。明治5年、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。明治7年、駐露特命全権公使となり、樺太千島交換条約を締結する。その後は政府要職歴任し、明治41年に死去した。


変名:榎本釜次郎
主な役職:海軍副総裁、蝦夷共和国総裁、逓信大臣、農商務大臣、外務大臣、海軍卿
剣術:-
墓所:東京都文京区吉祥寺


大久保 一翁
おおくぼ いちおう
(1817-1888)
徳川幕府

海舟や龍馬に慕われた幕府閣僚
文化14年、旗本大久保忠尚の長男として生まれる。第11代将軍徳川家斉の小姓を勤める。老中阿部正弘に見出され、安政元年に目付・海防掛に任じられた。軍制改正用掛、外国貿易取調掛、蕃書調所頭取などを歴任。駿府町奉行、京都町奉行なども務めた。安政の大獄で、部下の横暴を処罰したのが原因で、奉行職を罷免させられる。桜田門外の変後、幕府より復帰を許され、再び幕政に参与。外国奉行、大目付、御側御用取次などの要職を歴任する。長州征伐に反対し、大政奉還を前提とした諸侯会議・公議政体論を唱える。慶応4年、鳥羽伏見の戦い後、若年寄、会計総裁に選出。勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸城の無血開城に尽力した。その後、徳川家達に従って駿河に移住し、駿府藩の藩政を担当した。新政府には、議会政治樹立などに協力したが、政府とは常に距離を置いていたと言われている。明治21年に死去。


変名:大久保金之助、大久保市三郎、大久保三四郎、大久保忠正、大久保忠寛
主な役職:海防掛、京都町奉行、外国奉行、会計総裁、若年寄、東京府知事、元老院議官
剣術:心形刀流剣術
墓所:東京都府中市多磨霊園


大鳥 圭介
おおとり けいすけ
(1833-1911)
徳川幕府

伝習隊を率いて戦った蝦夷共和国陸軍奉行
天保4年、播磨国赤穂郡赤松村の医師小林直輔の子として生まれる。閑谷学校で漢学、儒学、漢方医学を学び、嘉永5年、大坂で緒方洪庵の適塾で蘭学と西洋医学を学ぶ。安政元年、適塾の仲間と共に江戸に出て、薩摩藩の知遇を得て翻訳などの手伝いをした後、坪井塾で塾頭となる。文久元年、江川英敏の推挙により、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として幕府に出仕。文久3年、海陸軍兵書取調方出役、開成所教授を兼務。富士見御宝蔵番格として正式に幕臣となる。慶応3年には、歩兵頭並となり、幕府陸軍の育成や訓練にあたった。慶応4年、歩兵頭に昇進。鳥羽伏見の戦い後の江戸城における評定では、交戦継続を強硬に主張。歩兵奉行に昇進し、江戸開城と同時に、伝習隊を率いて江戸を脱走。宇都宮戦争や会津戦争を転戦し、仙台にて榎本艦隊と合流して蝦夷地に渡り、蝦夷共和国の陸軍奉行となる。明治2年、五稜郭降伏後、東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄された。明治5年に特赦により出獄。新政府に出仕して、左院少議官、開拓使、大蔵小丞、工部技監、学習院長、駐清国特命全権公使、枢密顧問官を歴任。明治44年、食道癌により死去。日本初の合金製活版(大鳥活字)の制作し、多くの本を出版した。


変名:小林慶太郎、小林圭介
主な役職:富士見御宝蔵番格、歩兵頭、歩兵奉行、蝦夷共和国陸軍奉行、駐清国特命全権公使
剣術:-
墓所:東京都府中市多磨霊園


小笠原 長行
おがさわら ながゆき
(1822-1891)
唐津藩

のまま老中に登りつめた唐津の貴公子
文政5年、唐津藩主小笠原長昌の長男として生まれる。文政6年、父長昌が死去。長行が幼少であったため、後継の藩主には養子を迎えられるが、4代ほど短命の養子藩主が続いた。天保9年に江戸に出て、朝川善庵に師事。安政4年、藩主小笠原長国の養嗣子となる。幕政に参加し、文久2年には世嗣の身分のまま老中となった。同年の生麦事件では、事態を早急に終結させるため、幕府に無断で賠償金10万ポンドをイギリスに支払う。文久3年、京都で人質に近い状況に置かれていた将軍徳川家茂を救出すべく、大兵を率いて上京の途に就くが、在京幕閣の反対により断念。老中職を罷免される。慶応元年、老中に再任。慶応2年の第2次長州征討では、小倉口総督として指揮するが連敗を重ね、将軍の悲報を聞いて戦線を離脱した。第15代将軍徳川慶喜政権では、外交担当老中として欧米公使との折衝に当たり、外国事務総裁に任じられた。戊辰戦争が起こると江戸において徹底抗戦を主張し、旧幕府軍と共に箱館まで転戦した。箱館戦争終結後は行方をくらました。明治5年、新政府に自首したが赦される。その後は東京駒込動坂の小邸に隠棲し、明治24年、死去。


変名:小笠原行若、小笠原敬七郎、小笠原明山
主な役職:若年寄、老中、小倉口総督、外国事務総裁
剣術:-
墓所:東京都世田谷区幸龍寺


小栗 上野介
おぐり こうずけのすけ
(1827-1868)
徳川幕府

近代化の基礎を作り幕府の財政を一手に扱った勘定奉行
文政10年、旗本小栗忠高の子として生まれる。嘉永6年、ペリーが浦賀に来航。この頃から外国との積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ったと言われている。安政7年、遣米使節目付として渡米。通貨の交換比率の見直しを交渉。また、ワシントン海軍工廠を見学するなどして、欧米諸国との工業技術の差を実感する。帰国後、遣米使節の功により、外国奉行に就任。文久元年、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。幕府の対処に限界を感じ、外国奉行を辞任する。文久2年、勘定奉行に就任。幕府の財政立て直しを指揮する。また、湯島大小砲鋳立場を幕府直轄とし関口製造所に統合し、武田斐三郎などの気鋭の技術者を責任者として登用した。慶応元年、横須賀製鉄所の建設を開始。
慶応4年、幕府から帰農許可を得て領地である権田村に移住。東善寺を仮住まいとして観音山に住宅建設を進める。当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子は見られない。 しかし、東山道軍に捕縛され、取り調べもされぬまま、水沼河原で家臣三名とともに斬首された。


変名:小栗剛太郎、小栗又一、小栗忠順
主な役職:勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行
剣術:直心影流剣術
墓所:高崎市倉渕町東善寺


男谷 精一郎
おたに せいいちろう
(1798-1864)
徳川幕府

人格者としても優れた幕末の剣聖
寛政10年、男谷新次郎信連の子として生まれる。20歳のとき同族の男谷彦四郎忠果の婿養子となった文化2年、直心影流剣術12世団野源之進に入門して剣術を習い始める。さらに、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術、吉田流射術にも熟達した。文政6年、団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。見栄えや形式を重んじるあまり沈滞した剣術界を立て直すため、竹刀試合を奨励。信友自身も申し込まれた試合は一度も拒まず、江戸府内に立ち合わなかった者はいないといわれるほどであった。試合は、どんな相手でも三本のうち一本は相手に花を持たせるが、どんな強敵でも一本より勝ちを取ることができず、底知れぬ実力と評された。安政3年、幕臣の武芸訓練機関講武所が発足。男谷はその頭取並に就任し、門下からも榊原鍵吉などが剣術の師範役に就いた。講武所の剣術稽古は信友の方針により、形稽古を廃し、竹刀試合を主とした稽古が行なわれた。また、男谷はそれまでまちまちであった竹刀の全長を3尺8寸と定めた。これらの方針は明治以降の剣術に受け継がれ、現代の剣道に大きな影響を与えた。


変名:男谷信友男谷静斎、男谷蘭斎、男谷新太郎
主な役職:講武所頭取並
剣術:直心影流剣術、宝蔵院流槍術、吉田流射術
墓所:東京都江東区増林寺


か行


勝 海舟
かつ かいしゅう
(1823-1899)
徳川幕府
無血開城により江戸を戦火から救った幕末の三舟
文政6年、旗本小普請組の勝小吉の長男として江戸に生まれる。16歳で家督を継ぎ、永井青崖に蘭学を学び、赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年には咸臨丸で渡米する。帰国後は軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸に海軍操練所を開いて幕臣や坂本竜馬を教育した。戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張しこれを実現する。
維新後は、旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を叙された明治32年、風呂上がりにブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり死去。最期の言葉は「コレデオシマイ」であった。
変名:勝麟太郎、勝義邦、勝安房、勝安芳
主な役職:軍艦奉行並、軍事総裁、参議、海軍卿、枢密顧問官
剣術:直心影流剣術
墓所:東京都大田区洗足池


窪田 清音
くぼた すがね
(1791-1867)
徳川幕府
数々の武術と兵法を習得した講武所頭取
寛政3年、旗本窪田勝英の長男として生まれる。父勝英に中島流砲術、外祖父黒野義方から山鹿流兵法と吉富流居合の指導を受ける。その後、都築勘助から甲州流軍学、松本三甫から越後流軍学、斉藤三太夫から長沼流軍学を学び、諸流兵法を学んだ。武術では、鈴木大作から宝蔵院流槍術、和田孫次郎から無辺夢極流槍術、平野匠八から田宮流剣術・関口流柔術、小笠原館次郎から小笠原流弓術、土井主税から日置流弓術、浅井金兵衛から大坪流上田派馬術、井上左太夫から外記流砲術などを学ぶ。天保13年、御納戸頭の職に任じられていたときに天保の改革原案作成をめぐり羽倉簡堂と論争を起こし、御役御免となる。門人育成と古伝の著述に力を注ぎ、兵法、武家故実の研究家、武術家として大きな業績を挙げた。安政2年、講武所を新設すると、古伝研究の第一人者として頭取に就任する。兵学門人は以下3000人、武術門人は600人あまり。幕末・明治に活躍した多くの人物に影響を与えている。江戸期の天才刀工源清麿の師匠としても知られる。慶応2年、死去。
変名:窪田助太郎、窪田源太夫。窪田勝栄、修業堂
主な役職:講武所頭取、講武所兵学師範役
剣術:窪田派田宮流剣術、宝蔵院流槍術、無辺夢極流槍術、関口流柔術他
墓所:東京都港区玉窓寺


甲賀 源吾
こうが げんご
(1839-1869)
徳川幕府

宮古湾海戦に散った回天丸艦長
天保10年、掛川藩士甲賀孫太夫秀孝の第4子として生まれる。
安政6年、幕臣となって軍艦操練方手伝出役を任ぜられ、翌年、神奈川港警衛。文久元年には軍艦操練教授方出役。御軍艦組出役となり、江戸湾を測量した。文久3年には、海路上洛する将軍徳川家茂の護衛のため、江戸大坂間二往復の航海に従事し、大坂湾測量を命じられる。慶応4年、江戸城明け渡しに際し、勝海舟は軍艦の引き渡しを約束していたが、海軍副総裁榎本武揚はそれを拒み、荒井郁之助や甲賀を含む旧幕府海軍の主な面々も、それに同調。交渉の結果、軍艦については、「開陽丸」、「回天丸」、「蟠竜丸」、「千代田形丸」の4隻が徳川家に残されたが、徳川宗家の駿府移転を見届けた後、艦隊を率いての脱走する。甲賀は、回天丸の艦長としてそれに従った。奥羽越列藩同盟の中心地である仙台藩の松島湾に入港。榎本艦隊は幕府軍陸兵を収容し、蝦夷地で蝦夷共和国を建国した。明治2年、新政府軍の蝦夷地征伐の報せを聞いて、海軍奉行荒井郁之助やフランス軍人らと協議の末、新政府の軍艦「甲鉄」奪取作戦を決行。甲賀の指揮する回天丸は、蟠竜丸、高雄丸とともに宮古湾をめざしたが、悪天候のため、蟠竜丸ははぐれ、高雄丸は故障し、回天丸のみが宮古湾海戦に突入する。猛然とアボルダージを決行するが失敗し、左足や右腕を銃弾に撃ち抜かれながらも甲板上で指揮したが、頭を撃ち抜かれて戦死した。


変名:甲賀秀虎
主な役職:軍軍艦操練所軍艦役、軍艦頭並、朝陽丸艦長、回天丸艦長
剣術:−
墓所:函館市函館山碧血碑、東京都豊島区大観音光源寺



さ行


酒井 忠績
さかい ただしげ
(1827-1895)
姫路藩

末期の幕府を牽引した最後の大老
文政10年、旗本酒井忠誨の長男として生まれる。姫路藩第7代藩主酒井忠顕の養子となり、
万延元年に家督を相続。文久2年、空席の京都所司代に臨時として就任する。文久3年に老中首座となり、兵庫開港をめぐって朝廷対策に奔走。将軍家茂の上洛が決定すると徳川慶篤、松平忠誠と共に江戸留守居役を命じられる。慶応元年には大老となり、第二次長州征伐の事後処理、幕府軍の西洋式軍制の導入など、幕政改革に尽力する。慶応3年、隠居。弟忠惇に家督を譲る。江戸城開城後、新政府に徳川家の処遇への不満と、酒井家は徳川家の家臣であり徳川家との主従関係を断ち切って朝廷に仕えるのは君臣の義に反する為所領を返上したいとする嘆願書を提出している。明治27年、死去。


変名:酒井仁之助、酒井勘解由、閑亭、閑斎
主な役職:第8代姫路藩主、京都所司代、老中首座、江戸留守居役、大老
剣術:-
墓所:東京都豊島区染井霊園


佐々木 只三郎
ささき たださぶろう
(1833-1868)
徳川幕府

坂本龍馬や清河八郎を暗殺したとされる京都見廻組の剣客
天保4年、会津藩士佐々木源八の三男として生まれる。親戚であった旗本佐々木矢太夫の養子となり、神道精武流を学び「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範を勤めたと伝えられる。文久2年、浪士組結成に伴い京都へ上る。清河に反抗して、京都残留を決めた近藤勇らを京都守護職の支配下に置くように取り計らう。文久3年には江戸へ戻り、麻布で窪田泉太郎などと共に浪士組の清河八郎を暗殺する。元治元年には京都見廻組を率い、新撰組と共に尊攘派志士から恐れられ、禁門の変にも出動。慶応3年、京都近江屋で坂本龍馬、中岡慎太郎を暗殺したとされる。戊辰戦争が勃発すると幕府軍の一員として鳥羽伏見の戦いに参戦するが、樟葉で腰に銃弾を受けて重傷を負い、和歌山に敗走したが紀三井寺で死去した。


変名:佐々木泰昌、佐々木唯三郎
主な役職:京都見廻組与頭
剣術:神道精武流剣術、風心流剣術、夢想心流剣術
墓所:会津若松市東山町会津武家屋敷


澤 太郎左衛門
さわ たろうざえもん
(1834-1898)
徳川幕府
榎本武揚と共に新政府軍と戦った蝦夷共和国開拓奉行
天保5年、幕臣澤太八郎の子として生まれる。安政3年、箱館奉行書物御用掛として初出仕。安政4年、長崎海軍伝習所第2期に選抜。榎本武揚と知り合う。万延元年、築地軍艦操練所教授方手伝出役に任官。文久2年、幕府が募ったオランダ留学生に選ばれ、長崎を出航。欧米を巡察し大砲や火薬について学ぶ。慶応2年、開陽丸に乗りオランダを出発。翌年帰国し、軍艦役並勤方に任命され、開陽丸の軍艦頭並となる。慶応4年、大阪城を脱出した将軍徳川慶喜、老中板倉勝静、会津藩主松平容保らを大阪から江戸に運ぶ。その後、榎本が率いる旧幕府艦隊に参加。品川沖から脱走する。この際に開陽丸軍艦頭(艦長に相当)に任命される。明治元年、箱館政権下で選挙の結果、開拓奉行に選任される。箱館戦争を経て、五稜郭の降伏の報を受け、室蘭にて降伏。東京辰ノ口軍務糺問所に入牢する。明治5年に特旨を以て放免。開拓使御用掛を経て海軍兵学寮に勤務。教育者として多くの将校を育て海軍創設に貢献した。明治31年、肺炎にて逝去。

変名:澤^太郎、澤貞説
主な役職:開陽丸軍艦頭、開拓奉行、兵学権頭兼兵学大教授、兵学校教務副総理
剣術:神道無念流剣術
墓所:東京都港区青山霊園


渋沢 栄一
しぶさわ えいいち
(1840-1931)
徳川幕府
多種多様な企業の設立に関わった日本資本主義の父
天保11年、武蔵国の豪農渋沢市郎右衛門の長男として生まれる。幼少より父から読書を授けられ、四書五経や日本外史を学び、剣術は神道無念流を学んだ。文久元年、江戸に出て儒学者海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎道場に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。文久3年に京都に上るが、八月十八日の政変直後で、尊皇攘夷活動に行き詰まり、平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に仕える。慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席した徳川昭武の随員として渡航。パリ万博を視察したほか、欧米諸国を訪問する。慶応4年、新政府から帰国を命じられる。明治2年、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に見出され大蔵省に入省。大蔵官僚として民部省改正掛を率いて改革案の企画立案、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年に井上馨と共に退官する。退官間もなく、第一国立銀行の頭取に就任。また、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。その後、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。昭和6年、死去。
変名:渋沢栄二郎、渋沢栄一郎、渋沢篤太夫、渋沢篤太郎
主な役職:御勘定格陸軍付調役、大蔵官僚、第一国立銀行頭取、YMCA環太平洋連絡会議議長
剣術:神道無念流剣術、北辰一刀流剣術
墓所:東京都台東区谷中霊園



新見 正興
しんみ まさおき
(1822-1869)
徳川幕府

村垣や小栗らと共に渡米し見識を深めた外国奉行
文政5年、幕臣三浦義韶の子として生まれたが、文政12年に大坂町奉行新見正路の養子となり新見家の家督を継ぐ。小普請組支配や小姓組番頭をへて、安政6年に外国奉行に就任。神奈川奉行も兼任する。万延元年、日米修好通商条約批准書交換使節正使として副使村垣範正、監察小栗忠順と共に渡米。ブキャナン大統領と謁見し、国務長官のキャスと批准書交換をする。帰国後、外国奉行専任となる。文久2年、側衆となり伊勢守に叙されるが、元治元年には免職となった。慶応2年に隠居し閑水と号する。明治元年、上総国人見村へ帰農。翌年、病気療養のため再び上京しするが、そのまま病没した。


変名:新見閑水
主な役職:外国奉行、神奈川奉行、御側衆
剣術:−
墓所:東京都中野区願正寺



た行


高橋 泥舟
たかはし でいしゅう
(1835-1903)
徳川幕府

慶喜に慕われた誠実剛毅な三舟の一人
天保6年、旗本山岡正業の次男として生まれる。母方を継いで高橋包承の養子となる。生家の山岡家は槍の自得院流(忍心流)の名家で、長兄山岡静山に就いて槍を修行、海内無双、神業に達したとの評を得るまでになる。講武所槍術教授方出役、槍術師範役をへて、文久2年に結成された新徴組の取締責任者となる。文久3年、一橋慶喜に随行して上京。従五位下伊勢守を叙任される。慶応2年、遊撃隊が新設され頭取となる。また、槍術教授頭取も兼任。慶応4年、幕府が鳥羽伏見の戦いに敗戦すると、帰京した徳川慶喜に恭順を説いた。勝海舟が、徳川家処分の交渉のため西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで泥舟であった。しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦、鉄舟が見事にこの大役を果たした。後に徳川家が江戸から静岡に移住するのに従い、地方奉行などを務め、一時田中城を預かる。廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲、書画骨董の鑑定などで後半生を送った。


変名:山岡謙三郎、高橋精一郎、高橋精一、高橋政晃、高橋忍歳
主な役職:新徴組取締責任者、遊撃隊頭取、槍術教授頭取
剣術:自得院流槍術
墓所:東京都台東区大雄寺


高松 凌雲
たかまつ りょううん
(1837-1916)
徳川幕府

敵味方問わず治療する赤十字活動の先駆者
天保7年、筑後の庄屋の子として生まれ、久留米藩士川原家の養子となる。実兄古屋佐久左衛門を頼って上京し医師を志す。大坂に出て適塾に入門し、緒方洪庵の指導を受ける。西洋医学のみならず、蘭語・英語も習得。慶応元年、一橋家の専属医師として抜擢され、時を同じくして一橋慶喜が第15代将軍となったため、凌雲は幕府から奥詰医師として登用される。慶応3年、パリ万国博覧会の日本代表団の随行医に選ばれる。万博終了後は留学生としてパリに残る1年半の留学後に帰国するが、大政奉還、鳥羽伏見の戦いで幕府は崩壊してしまう。凌雲は榎本武揚ら旧幕府勢力と合流。箱館病院の院長に就任する。ここで箱館戦争の負傷者を敵味方を問わず治療する。この行動は日本で初めての赤十字の活動となった。戦後、東京に戻って鶯渓病院を開院。町医者の道を選ぶ。明治12年、民間救護団体の前身と言われる同愛社の創設に尽力した。大正5年、死去。


変名:高松権平、高松荘三郎
主な役職:奥詰医師箱館病院院長
剣術:
墓所:東京都台東区谷中墓地


竹中 重固
たけなか しげかた
(1828-1891)
徳川幕府

幕軍として戦った竹中半兵衛の子孫
文政11年、旗本竹中元幸の長男として生まれて家督を継ぐが、本家である旗本竹中重明の養嗣子となる。文久元年に本家の家督相続。幕府陸軍の創設後は陸軍奉行として天狗党征伐や長州征伐で活躍する。慶応4年、鳥羽伏見の戦いに参加するが、幕府軍敗北によって罷免、官位剥奪される。その後、純忠隊を結成して彰義隊の支部隊として新政府と交戦する。彰義隊の敗退後は輪王寺宮を奉じて奥羽を転戦。榎本艦隊に合流して蝦夷共和国の海陸裁判所頭取に就任した。明治2年、箱館戦争終結前に英国汽船で東京へ向かい、養父の薦めにより投降。領地没収・除族の上、福岡藩預りに処される。明治4年、養父とともに北海道に入植する。明治5年、士族の困窮を憂いて北海道殖産事業に関する建白書を提出。明治6年には東京府に出仕したが、2年後に辞職。その後は実弟が経営する蓬英社に入社し、殖産事業に尽力した。明治24年、死去。


変名:竹中春山
主な役職:陸軍奉行純忠隊隊長海陸裁判所頭取
剣術:
墓所:東京都品川区泉岳寺




な行


中島 英次郎
なかじま えいじろう
(1850-1869)
徳川幕府
千代ヶ岡で戦死した中島三郎助の次男
嘉永3年、中島三郎助の次男として生まれる。戊辰戦争が勃発すると、父や兄の恒太郎と行動を共にしてに江戸品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。函館戦争では父、兄と千代ヶ岡陣屋を守備し奮戦。戦況は悪化し、新政府軍より降伏勧告が出されたが、父三郎助はこれを拒否。また、五稜郭からの撤退命令も拒否して、徹底抗戦した。英次郎は父、兄とともに戦死する。


変名:−
主な役職:−
剣術:-
墓所:横須賀市東浦賀町東林寺


中島 恒太郎
なかじま こうたろう
(1847-1869)
徳川幕府
千代ヶ岡で戦死した中島三郎助の長男
弘化4年、中島三郎助の長男として生まれる。慶応2年、父より与力職を譲られる。戊辰戦争が勃発すると、父や弟の英次郎と行動を共にしてに江戸品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。函館戦争では父、弟と千代ヶ岡陣屋を守備し奮戦。戦況は悪化し、新政府軍より降伏勧告が出されたが、父三郎助はこれを拒否。また、五稜郭からの撤退命令も拒否して、徹底抗戦した。恒太郎は父、弟とともに戦死する。



変名:−
主な役職:与力
剣術:-
墓所:横須賀市東浦賀町東林寺


中島 三郎助
なかじま さぶろうすけ
(1821-1869)
徳川幕府

戊辰戦争を駆け抜けた旧幕軍の猛将
文政4年、浦賀奉行所与力中島清司の子として生まれる。若い頃より砲術に才能を見せ、田付流、集最流、荻野流の免許、高島流の皆伝を受けた。また俳諧、和歌を父より手ほどきを受けたと伝えられている。嘉永6年にペリー艦隊が浦賀沖に来航した際に、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦「サスケハナ」に乗船。その後、浦賀奉行戸田氏栄ら重役に代わり、米国使者の応対を勤めている。嘉永7年に完成した日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命された。安政2年、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた。安政5年に築地軍艦操練所教授方出役に任ぜられた。万延元年、軍艦操練所教授方頭取手伝出役に進んだが、病気のために文久元年出役依願免、与力に戻った。元治元年に富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に任ぜられたものの再び病気となり、慶応2年、出役依願免、同年末には与力の職も長男・中島恒太郎に譲った。慶応3年に再奉公を命じられ、軍艦組出役、小十人格軍艦役勤方を経て、両番上席軍艦役に進んだ。戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁榎本武揚らと行動を共にしてに江戸品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。蝦夷共和国下では箱館奉行並、砲兵頭並を勤める。戦時は本陣前衛の千代ヶ岡陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦。五稜郭降伏2日前の明治2年、長男の恒太郎・次男の英次郎らと共に戦死。


変名:中島永胤、中島木鶏
主な役職:軍艦操練所教授方頭取手伝出役、両番上席軍艦役、箱館奉行並、砲兵頭並
剣術:-
墓所:横須賀市東浦賀町東林寺


中根 長十郎
なかね ちょうじゅうろう
(1794-1863)
徳川幕府

慶喜の公武合体転向の黒幕として暗殺された一橋家側用人
寛政6年、旗本中根正峡の長男として生まれる。天保9年より一橋家に仕え、徳川慶喜が一橋家を継ぐと、側用人兼番頭として平岡円四郎らと共に重用された。当時、慶喜は攘夷論者とみられたが、攘夷を約束しないのは、側近の平岡円四郎の仕業だと噂され、攘夷派浪士が平岡に詰問した際、その責任は中根にあると責任転嫁したとされる。中根は浪士らの面会に応じなかった為、文久3年に中根は江戸雉子橋門外で何者かに暗殺された。


変名:中根正剛
主な役職:一橋家側用人
剣術:-
墓所:東京都文京区養源寺


は行


原 市之進
はら いちのしん
(1830-1867)
徳川幕府

慶喜が全幅の信頼を寄せた元水戸藩士
天保元年、水戸藩藩士原雅言の次男として生まれる。弘道館で学び、昌平坂学問所に入学。その後、水戸に帰国して弘道館の訓導となり、奥右筆頭取に任命される。文久3年、一橋慶喜の側近となり慶喜の補佐を務める。元治元年、一橋家家老並平岡円四郎が暗殺されると、側用人となる。慶喜に寵愛され忠義を尽くすが、その功績を妬んだ、同僚の鈴木豊次郎、依田雄太郎によって暗殺された。


変名:原熊、原忠敬、原忠成、原任蔵、原尚不愧斎、仲寧、伍軒
主な役職:水戸藩奥右筆頭取、一橋家側用人、奥番格奥詰
剣術:-
墓所:京都市東山区長楽寺


平岡 円四郎
ひらおか えんしろう
(1822-1864)
徳川幕府

慶喜の公武合体転向の黒幕として暗殺された一橋家家老並
文政5年、旗本岡本忠次郎の子として生まれ、旗本平岡文次郎の養子となる。藤田東湖や川路聖謨からその才能を認められ、一橋家の小姓として推薦され、一橋慶喜に仕える。安政5年、徳川家定の将軍継嗣問題では、主君の慶喜を将軍に擁立しようと奔走するが失敗。直後の安政の大獄では、甲府に左遷された。慶喜が将軍後見職に就任すると一橋家に戻る。慶喜からの信任は厚く寵愛を受け、元治元年、側用人番頭を兼務、一橋家家老並に任命される。文久3年、当時慶喜は攘夷派と世間で見られていたが、公武合体派として活動した。そのため、慶喜の転向は腹心の平岡によるものとみなされ、水戸攘夷派の江幡広光ら数名に、千本通西門付近で斬殺された。


変名:岡本円四郎、平岡近江守、平岡方中、平岡円外
主な役職:勘定奉行所留役当分助、一橋家側用人、一橋家家老
剣術:-
墓所:-


古屋 佐久左衛門
ふるや さくざえもん
(1833-1869)
徳川幕府

戊辰戦争を戦い抜いた幕軍の英才
天保4年、筑後の庄屋の次男として生まれる。大坂で医学を、江戸で洋学や剣術を学び、御家人古屋家の養子となる。長老派宣教師から英語や洋学を学び、文久2年には神奈川奉行所の通訳となった。その後、英国軍隊に用兵術を学ぶ。鳥羽伏見の戦いには、歩兵差図役頭取として参加した。江戸機関後は、北越戦争、会津戦争と転戦。石巻から榎本艦隊に合流し箱館に向かった。蝦夷共和国では歩兵頭に就任し、明治2年、五稜郭で新政府軍の軍艦による艦砲射撃を受けて重傷を負い死去した。


変名:高松勝太郎
主な役職:歩兵差図役頭取、衝鋒隊隊長、蝦夷共和国歩兵頭
剣術:神道無念流剣術
墓所:東京都台東区谷中霊園


堀田 正睦
ほった まさよし
(1810-1864)
佐倉藩

阿部正弘の幕政を矢面に立ってサポートした老中首座
文化7年、佐倉藩第3代藩主堀田正時の次男として生まれる。文化8年、4代藩主を義兄の正愛が継ぎ、その養子となった。文政7年、藩政を牛耳っていた家老金井右膳は、堅田藩主堀田正敦の子を藩主に擁立しようとしたが、藩内では渡辺弥一兵衛ら下級武士が金井に反対して対立。 さらに正敦が養子を出すことを拒否したために、藩主に就任した。藩政は継続して金井が牛耳っていたが、自らの家督相続を支持した渡辺を側用人に抜擢するなどして自らの権力を確立し、金井が死去するまでこの体制を維持した。文政12年、奏者番に就任。天保5年には寺社奉行を兼務する形で任命される。天保8年に大坂城代を拝命。天保12年、老中に任命され、老中首座の水野忠邦が進める天保の改革に参与する。しかし、水野の改革に対して批判的であり、天保14年に病気と称して辞表を提出する。老中辞任後は、藩に戻って藩政改革に着手。 外交においては開国派であった。安政2年、老中首座阿部正弘の推挙で老中に再任され、老中首座を譲られる。幕政の実権は阿部がそのまま掌握し、堀田が矢面に立って阿部の激務を助けた。安政3年、第13代将軍徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名。安政5年、日米修好通商条約では、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが却下された。その後の将軍継嗣問題では、はじめ南紀派に属していたが、時勢を考えて一橋派に路線を変える。南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、老中松平忠固と共に登城停止処分を受け、忠固と共に老中を罷免された。文久2年、朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となり、元治元年、病死した。


変名:堀田左源治、堀田左源次、堀田正篤、見山
主な役職:第5代佐倉藩主、大坂城代、老中首座、
剣術:-
墓所:佐倉市新町甚大寺


ま行


松岡 磐吉
まつおか ばんきち
(生年不明-1871)
徳川幕府

箱館戦争で活躍した蟠竜丸艦長
江川英龍の家士であった事以外、出自は定かではない。長崎の海軍伝習所で航海術を学び、卒業後幕臣となっている。安政6年、日本初の沿海測量を実施して海図を発行。函館戦争では、宮古湾海戦に参加。箱館湾海戦では旧幕府海軍の中でその時唯一軍艦の機能を果たしていた蟠竜丸の指揮を執り、箱館総攻撃では、圧倒的な兵力差にもかかわらず新政府軍艦朝陽丸の火薬庫に砲撃を命中させて轟沈せしめた。その後、新政府軍艦から集中砲火をあび、蟠竜丸が浅瀬に乗り上げてしまったため、松岡ら乗組員は七重浜に上陸して本陣五稜郭へ撤退。蝦夷共和国降伏後は、東京の辰の口牢獄に送られ、赦免数ヶ月前にして獄中で死亡した。


変名:-
主な役職:蟠竜丸艦長
剣術:-
墓所:-

松平 容保
まつだいら かたもり
会津藩人物録へ


松平 定敬
まつだいら さだあき
(1859-1868)
桑名藩

兄と共に新政府と戦った桑名藩主
弘化3年、高須藩主松平義建の八男として生まれる。安政6年、第3代桑名藩主松平定猷の死去に伴い、婿養子として迎えられ第4代桑名藩主となった。元治元年には、京都所司代に任命され、京都守護職松平容保や将軍後見職一橋慶喜と連携し京都の治安維持に務める。禁門の変では、会津藩・薩摩藩と共にに長州藩兵を撃退する。慶応4年の鳥羽伏見の戦いで惨敗し、慶喜らと共に大阪を脱出して江戸に向かう。新政府から慶喜や容保らと共に敵視され、桑名藩の飛び地柏崎へ渡った。鯨波戦争、会津戦争を経て榎本艦隊と合流し、箱館戦争を戦った。箱館降伏の直前、従者とともに米国船に乗り亡命を図るが、路銀不足で断念して横浜で降伏。永禁錮処分となった。明治5年に赦免。明治6年、米国宣教師サミュエル・ブラウンが横浜市中共立修文館を設立すると、旧家臣と共に入学して英語を学ぶ。ブラウンの辞任に伴い、ブラウンの私塾開校に尽力した。明治7年渡米。翌年帰国する。明治10年の西南戦争には、旧桑名藩士を率いて参戦している。明治27年、日光東照宮の宮司就任。明治41年、死去。


変名:松平_之助
主な役職:第4代桑名藩主、京都所司代、日光東照宮宮司
剣術:-
墓所:東京都豊島区染井霊園


松平 忠固
まつだいら ただかた
(1812-1859)
上田藩

開国派として幕政をリードした次席老中
文化9年、姫路藩主酒井忠実の次男として生まれる。文政12年、上田藩の第5代藩主松平忠学の養子となり、翌年家督を継いだ。幕政では、寺社奉行、大坂城代を経て、嘉永元年に老中に抜擢される。嘉永6年のペリー来航問題では、老中首座阿部正弘が諸大名や朝廷に意見を求めるのを反対する。幕府がわざわざ朝廷諸大名に意見を求めるのは、幕府の当事者能力の喪失を印象付けるだけで愚策であるとの認識であった。幕府内で主流だった開国派として積極的な交易論を唱え、幕閣の大勢は交易通信の承認に傾いた。しかし、水戸藩主徳川斉昭の抗議により、老中松平乗全と共に免職させられる。安政2年、開国派の巨頭堀田正睦が老中首座に就任し、安政4年に日米条約の交渉を推進する堀田の同志として、再び老中に返り咲いた。再任後、勅許不要論を唱えて一刻も早い締結を主張し、要勅許を唱える外野と対立。また、将軍継嗣問題では南紀派に属した。彦根藩主井伊直弼を大老にする工作を行い、将軍を徳川慶福とすることに成功する。しかし、忠固の権力に井伊は反発して、安政の大獄で老中から免職、蟄居を命じる。安政6年、急死。暗殺説も囁かれた。


変名:松平玉助、松平忠優、慎斎
主な役職:第6代上田藩主、大坂城代、老中
剣術:-
墓所:府中市多磨町多磨霊園、上田市中央願行寺


松平 忠敏
まつだいら ただとし
(1804-1884)
徳川幕府

後に剣豪として語られる浪士組の取締役
文政元年、長沢松平家第16代当主松平親芳の三男として生まれる。
幼少より柳剛流剣術を修練している。安政3年、外国勢力に脅威を感じた幕府が、国防策の一環として武芸訓練機関として講武所を開設するにあたり、剣術教授方に任命される。浪士組取締役も兼任し、文久3年には剣術師範役並に昇進した。一旦は浪士組取締役を辞任するが、清河が暗殺されると、浪士組取締役に復帰した。浪士組は改めて新徴組として組織され、新徴組支配を命じられる。元治元年、第一次長州征伐において、征討総督徳川慶勝の手に加わるため、講武所の剣術師範役並を辞職する。慶応4年、清水小普請支配を命じられるがすぐに辞任した。維新後は御歌所の歌道御用掛となる。


変名:松平主税助、松平主税之助、松平主税之介、松平上総介
主な役職:講武所剣術師範役並、浪士組取締役、新微組支配清水小普請支配、歌道御用掛
剣術:柳剛流剣術
墓所:東京都江東区正覚院


松平 太郎
まつだいら たろう
(1839-1909)
徳川幕府

榎本の女房役として活躍した蝦夷共和国副総裁
天保10年、幕臣松平九郎左衛門の子として生まれる。文久年間に奥右筆、慶応3年には外国奉行支配組頭となりこれを務めた。慶応4年に戊辰戦争が勃発すると、歩兵頭を経て陸軍奉行並に任命され、陸軍総裁勝海舟の下で旧幕府軍の官軍への反発を抑える役目を負うが、主戦論者だった松平は大鳥圭介や榎本武揚らと図って自らも抗戦に参加。江戸を脱出し、今市にて大鳥と合流、軍資金を届けている。その後会津戦争で敗れると榎本らと共に蝦夷地へ渡る。蝦夷地占領後に行われた選挙において榎本に次ぐ得票を得て、蝦夷共和国の副総裁に就任。主に民政や外交面で活動し、榎本の女房役を務める。榎本の洋才に対し、松平の和魂と言われ、人望は厚かった。蝦夷共和国降伏後は、榎本らと東京に護送され、東京辰ノ口糾問所に禁固。明治5年に釈放され、明治政府に開拓使御用係・開拓使五等出仕に任ぜられて箱館在勤を命じられたが、翌年には辞した。その後、三潴県権参事を経てロシアのウラジヴォストークに外務省7等出仕して派遣されたが、ほどなく退職。現地で貿易商、中国で織物業などを営むが、商売人としての才能に欠け、いずれも失敗、流浪の日々を送る。晩年は榎本の保護下で生活していたと言われている。


変名:-
主な役職:陸軍奉行並、蝦夷共和国副総裁
剣術:-
墓所:東京都文京区大林寺


松本 良順
まつもと りょうじゅん
(1832-1907)
徳川幕府

西洋医学に傾向した将軍の主治医
天保3年、佐倉藩藩医佐藤泰然の子として生まれ、幕医松本良甫の養子となる。安政4年、長崎伝習之御用を命じられて長崎に赴き、医学伝習所を作って蘭軍医ポンペに医学等を学ぶ。文久2年、奥詰医師となって医学所頭取助を兼任。文久3年には、奥医師に昇進し医学所頭取となる。元治元年、将軍侍医などを務め、将軍徳川家茂の治療を行う。新選組の近藤勇とも親交があり、隊士の診療も行っている。慶応2年、徳川家茂の病状が悪化。不眠で治療にあたるが、その甲斐なく死を看取った。戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台で降伏した。戦後は山縣有朋らの薦めで、大日本帝国陸軍軍医総監となる。明治40年、死去。


変名:佐藤順之助、松本順、蘭疇、楽痴
主な役職:西洋医学所頭取、将軍侍医、大日本帝国陸軍軍医総監、貴族院勅撰議員
剣術:-
墓所:神奈川県中郡大磯町妙大寺



間部 詮勝
まなべ あきかつ
(1804-1884)
鯖江藩

井伊の側近として奔走した老中
文化元年、間部詮熙の五男として江戸の鯖江藩邸で生まれる。文化11年に鯖江藩主となり、11代将軍徳川家斉の側近として要職を歴任する。天保11年、家斉の推薦で西丸老中となったが、天保の改革を行っていた水野忠邦に、奢侈好みだった家斉の最晩年の側近だったと疎まれ、天保14年に老中を辞任する。その後、安政5年に大老井伊直弼の下で再び老中に復帰し、勝手御入用掛と外国御用取扱を兼務する。その後、勝手掛老中に昇進。朝廷対策、日米修好通商条約の調印など外交問題や、一橋派や尊皇攘夷派を弾圧する安政の大獄に奔走する。しかし、逮捕者の処断をめぐって井伊と対立したため、安政6年に免職される。文久2年、老中在任中に失政ありとして、間部家は1万石の減封。同年隠居。


変名:間部鉞之進、間部詮良、間部松堂、間部慈郷
主な役職:第7代鯖江藩主、幕府老中、勝手御入用掛、外国御用取扱
剣術:-
墓所:市川市正中山法華経寺


村垣 範正
むらがき のりまさ
(1813-1880)
徳川幕府

遣米使節団の副使として渡米した能臣
文化10年、旗本村垣範行の次男として生まれる。天保2年、小十人格庭番となり、弘化2年には細工頭、安政元年には賄頭を経て、同年勘定吟味役に抜擢。海防掛・蝦夷地掛として蝦夷地、樺太巡視を行い、日露国境を確認。同年ロシア艦隊の再来日に際して、筒井政憲、川路聖謨らとともに露使応接掛として伊豆下田に赴任した。その後、箱館表御用、内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他製造御用、東海道筋川々普請掛などを歴任。安政3年には箱館奉行に昇進した。先任の堀利煕とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進。安政5年には安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年には神奈川奉行を兼務するなど能吏ぶりを買われた。安政7年、日米修好通商条約批准書交換のため使節団の副使として渡米。ブキャナン大統領と会見した。帰国後、日普修好通商条約締結にあたり、日本側全権として調印に臨んだ。明治元年、病のためと称して隠居。明治13年に東京にて没した。


変名:村垣与三郎、村垣範忠、村垣淡叟
主な役職:箱館奉行、外国奉行、神奈川奉行、作事奉行
剣術:−
墓所:東京都台東区谷中霊園


や行


山岡 鉄舟
やまおか てっしゅう
(1836-1888)
徳川幕府

江戸城無血開城の活躍した三舟の一人
天保7年、小野朝右衛門の四男として生まれる。幼少時を飛騨高山で過ごし、弘法大師流入木道51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぐ。また、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に異常なほどの才能を示す。父の死に伴い江戸へ帰り、山岡家の養子となる。安政4年幕臣として、清河八郎とともに浪士隊を結成、取締役となる。文久3年、将軍先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後、謹慎処分となる。
江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府に辿り着き、単身で西郷と面会する。明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任。明治18年には、一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流(無刀流)を開いた。明治21年、胃癌にて死去。


変名:山岡鉄太郎、一楽斎、山岡高歩
主な役職:浪士組取締役、精鋭隊歩兵頭格、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、
侍従、宮内大丞、宮内少輔
剣術:神陰流剣術、樫原流槍術、北辰一刀流剣術、忍心流槍術、
中西派一刀流剣術、一刀正伝無刀流剣術
墓所:東京都台東区全生庵


ら行


わ行



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